マタイ書14章32-42

イエス様が捕まえられる直前、弟子たちに語られた言葉にとても胸が痛みます。

「裏切る者が近くに来ています。」という言葉を読むやいなや、創世記のヨセフが思い浮かびました。夢見る者がやって来る。彼は夢を見る者でした。神様からいただいた夢をいつも話していました。それ故、兄弟たちから憎まれましたが、にもかかわらず、ヨセフは夢を持っている者でした。誰の夢でしょうか?神様からいただいた夢でありビジョンでした。その夢によって彼の人生の中で、ある期間苦痛の時間を通らなければなりませんでしたが、彼の夢通りに成し遂げてくださる神様を経験し、神様の栄光を現すことが出来ました。

「裏切る者がやって来る」いかに悲惨な言葉でしょうか?3年の間、イエス様と同行しながら多くのことを見て学んだはずですが、最後には裏切ってしまいます。彼もイエス様を通して自分なりの夢を見たはずでしょう。しかし、その夢は神様からのものではなく自分の夢でした。自分の夢が成しとげられなさそうになったら、彼はイエス様を裏切ってしまったのです。

同じ夢を見ましたが、ひとりは「夢を見る者がやってくる」と言われ、もう一人は「裏切る者がやって来る」と言われました。

1.あなたは現在、夢をみていますか?夢を見ているなら誰の夢を見ていますか。つまり、何のためにイエス様を信じて従っていますか?主がくださった心と同じ心を抱いていますか?でなければ、自分の欲に従って信仰生活をし、教会共同生活をしていますか?

2.もし、自分の思いにあわないと主を裏切り、離れる夢を見ていますか?それではなく、主の御心であれば苦痛や苦難があってもその道を歩んでいますか?

イエス様は、ご自分が捕まえられることを知り、祈るために山に登られました。最後まで、神様に従順であるために、恐れおののく心をもう一度確実にするために祈られました。イエス様も、神様の夢(計画)を見ながら、その道を歩まれました。できることなら、この時が自分から過ぎ去るように(35節)と祈られました。「しかし、私の望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。(36節)」

これこそ、夢見る者の姿ではないかと思います。自分の心ではなく、神様の心に従うことです。私たちは、自分の心、自分の思いに従って、物事を決める場合が多いです。それこそ、私たちが持っている裏切る者の一面ではないかと思います。

私たちは夢を見る者なのか、裏切る者なのか、自分自身に問うべきです。