Ⅰサムエル25:1-17

預言者サムエルが死にました。全イスラエルは悼み悲しみました。サムエルがイスラエルの民たちに尊敬された人であったことが分かります。なぜならば、サムエルはいつも心にイスラエルを抱いていたからです。国を抱き、祈ったサムエルの死だったので、全イスラエルが悼み悲しんだのです。人の価値は死んだ後に分かるものだと言われます。生きている間に、人たちにどんな影響を及ぼしたのかが分かります。

反面、ナバルは非常にお金持ちでしたが、影響力は全然ありませんでした。しもべたちさえも「ご主人はよこしまな方ですから、だれも話しかけることが出来ません。」と言うほどでした。つまり、ナバルは周りの人たちの話を聞かない、人を抱けない人でした。また、多く持っていますが、分け合うことも知りません。羊の毛を刈り取る宴が開かれる、食べ物が豊かな時期です。600人を引き連れるダビデも彼に食べ物を頼みます。しかし、ナバルはダビデの頼みを拒みます。

聖書は、彼を愚か者だと言っています。ナバルと言う名前が愚か、バカと言う意味です。サウルのように人を抱くことが出来ない人が愚かな人です。そのような人の周りには人が集まりません。

逃げる生活のダビデと部下たちには食糧がいつも足りなかったはずです。その時にナバルが羊の毛を刈り取ることを聞きました。以前、ダビデと彼の部下たちはナバルの牧者たちと羊の群れを守ってあげました。ダビデと部下たちには力がありましたが、ナバルの羊や牛を奪いませんでした。彼らは誠実に行いました。しかし、そのような彼らのやさしさは完全に無視されました。

ナバルがダビデを知らないはずがありません。彼が「この頃は、主人のところから脱走する家来が多くなっている(10節)」と言うのは、サウルから逃げて来たダビデのことを蔑む態度でした。

それで、ダビデは激怒してしまいます。ここで、ダビデの残念な姿が見られます。彼が、もう少し忍耐したら良かったのに。彼は自分の命を狙うサウルさえも赦して善を施した人です。しかし、ある人が自分を無視したという理由で殺人をしようとしています。自分の所に身を避けている空腹の600人のことを考えると怒りが出たことでしょう。この姿から、ダビデだけでなく人間がいかに弱い存在であるかが分かります。

私たちも信仰生活を頑張ってやっていましたが、苦難が訪れたり、他人を助けたことで誤解されたりすることがあります。自分の善行が良い結果をもたらさなかった時に、怒りが出たり、鬱憤が出たりします。すると、行動にミスが生じます。ダビデが部下たちを連れて上っていたのは軽率な行動でした。もう少し待ったならば、主が一層彼の必要なものを満たして下さったでしょう。なぜなら、このすべての状況は、神様が彼を王に立たせるための信仰訓練の過程だったからです。伝道者7:8「事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。」

心に抱くほど、私たちは成長すると信じます。自分が願った結果を得ることが出来なかったと言って、軽率にことを決めた経験はありませんか。軽率に恨み、軽率にがっかりしたことはありませんか。聖徒は原因と結果によって生きるものではありません。神様の恵みと計画の中で生きる存在です。自分が願う結果にならなかったとしても、神様の御心を待ち、慕い求めつつ生きていきましょう。