コロサイ書4:6-18

使徒パウロは、安否を尋ねることで手紙を終えます。コロサイ書の中でも色んな人たちの名前が言及されています。そのすべての人が使徒パウロと共に働いた人たちの名前です。そして、その人たちの出生が皆違うことに恵みを覚えます。ユダヤ人もいれば異邦人もいます。自由人もいれば奴隷だった人もいます。また、過去には関係が良くなかった人もいます。

その中でティキコはパウロがとても信頼した人でした。彼は、コロサイ書だけではなくエペソ書にも登場します。手紙を預けるほど信頼を置いていた人です。パウロはティキコを紹介するたびに忠実な奉仕者だと呼ぶほどでした。

オネシモはコロサイから来た人でしたが、実はピレモンの奴隷でした。獄中でパウロに出会い、イエスを信じてパウロと共に働くほど成長した人です。

バルナバのいとこマルコも言及されています。このマルコは一次伝道旅行の時に耐えられなくなって途中で帰ってしまった人でした。このことでパウロはバルナバと喧嘩し、二人が別れるようになったわけです。なので、パウロの立場であればマルコについて良い思いは何一つないでしょう。しかし、今は、パウロの働きを助ける同労者になっています。特にマルコはアリスタルコとユストと共に割礼を受けたユダヤ人で、異邦人宣教に協力し、パウロの力になったと、また、パウロはこの3人から慰めをもらったと言っています。

このように、福音は人を変える力があります。ギリシャ人であれユダヤ人であれ、自由人であれ奴隷であれ、福音の中では差別がありません。また、過去にどんなことがあったとしても再び一つになれることを見せてくれるのです。福音を伝えることで、個人の感情が先になってはいけません。私たちは福音の中でお互に赦し合い、愛し合って一つになりました。これが新しい人を着た人の姿でしょう。私たちの中で、今も過去のことによってお互に誤解し、間違った情報により心の壁を築き、憎しみを抱いているのではないか顧みましょう。そのようなものが福音の障害になるなら、相手の問題ではなく自分の問題であるのは確かです。

偉大な使徒パウロも一人で福音を伝えたのではなく、共にする人たちがあったこそ慰めになり、使命を果たすことが出来ました。神の国のための同僚者たちであり、自分によって慰めになったと告白しています。自分も誰かの力になり、慰めになれるのです。また、自分のとなりにいる人を大事にする心が必要です。

 最後に使徒パウロはコロサイ教会だけではなくコロサイ教会と繋がっている他のところにも挨拶をしています。他の地域まで福音を伝えたいと願う心でしょう。ラオディキアとヒエラポリスにいる人々です。そこにエパフラスが福音を伝えたからです。今、エパフラスもパウロと共に牢の中にいます。パウロは、彼が牢に繋がれていることを覚えなさいと言っています。つまり、これからはコロサイ教会の信徒たちが福音を持って出て行くべきだと、パウロの切なる願いではないでしょうか。

パウロやエパフラスのような人たちだけが福音を伝えるのではありません。私たち共同体の中の一人だけ働くのではなく、皆が、主のための働きを継続していくべきです。それが教会の正しい姿だと思います。