Ⅰサムエル17:28-40

前回、サウルが神様から退けられた後、イスラエルは真のリーダーが不在の状況であったと話しました。誰がリーダーでしょうか。王がリーダーでしょうか。戦いの上手な人がリーダーでしょうか。あるいは、声が大きく、主張する人がリーダーでしょうか。全部違います。真のリーダーとは、責任を取る人だと言えます。今、イスラエルの中では、真の責任を取ろうとする人は見えません。サウルも彼の兵士たちも責任を取ろうとしません。戦争の中で、だれ一人ゴリヤテの罵りを聞いても戦おうとしません。恐れて何もできず、しようともしません。

このような状況の中で、ダビデが出て戦おうとすると兄エリアブに怒られます。なぜエリアブが怒っているのか、この箇所を読む度に気になりました。そこで、ある聖書学者がこのように解説しました。「ゴリヤテと戦うことも出来ず、弟ダビデに劣ることも出来なくて見せた反応」だと。つまり、自分が責任を取ることが出来ないのに、他の人が責任を取ろうとすることに腹が立ったわけです。易しく言い換えれば、わたしができないから、君もしないでくれと言うことでしょう。

このような姿は、サウルにも見られます。サウルは一国の王として戦争の責任を取るべき人でした。しかし、恐れて何もできない状況の中で、幼いダビデが出て戦うというのです。それで、「あなたはあれと戦うことは出来ない。お前はまだ幼いし(3節)」と言いながら、無視します。しかし、ダビデは、「主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。(37節)」。ハレルヤ。

これこそ、責任を取る人の姿ではありませんか。責任を取るというのはすべてが出来るということではありません。私は力がなく能力も足りないが、現実的には不可能に見えるが、神様には出来ると信じ頼ることです。それから、行動に移すことでしょう。もし、恐ろしくて何もしないままでいるなら、神様も何の働きもなさいません。もちろんその行動が100%いい結果をもたらすとは限りません。願っていた結果が出ないかも知れません。しかし、神様が責任取って下さることを信じて行動に移すことが大事だと思います。

結局、この事件は、ダビデがイスラエルのリーダーになる重要なきっかけになります。ダビデはサウルにこのように話します。「あの男のために誰も気を落としてはなりません。(32)」誰が気を落としていましたか。イスラエルだと思いますが、サウル王に向けての言葉かも知れません。リーダーが気を落としてはいけないからです。ダビデは自分の羊を守るために命がけで戦ったと言っています。今、彼は命を掛けて戦っているのです。これが責任を取るリーダーの姿勢でしょう。

私たちの人生の問題に責任を取って下さる方は誰でしょうか。私たちのリーダーであるイエスキリストです。その方は、2千年前、私たちの罪の問題の解決のために十字架の上で死なれました。私たちを救ってくださいました。私たちの真のリーダーである方です。

皆さんは、現在、イエスキリストを真のリーダーとして認めていますか。また、イエス様に従う弟子として、自分が責任を取るべきことは何でしょうか。