Ⅰサムエル16:1-23

15章で、神様がサウルを王位から退けたことでサムエルは悲しんでいました。サムエルにとって、サウルはイスラエルの王として初めて油注がれた人でした。それで、期待感もあったでしょう。しかし、その期待が崩れた時には、人間的な心の痛みもあったでしょう。しかし、神様はそのようなサムエルに、王位から退けられたサウルのことでいつまで悲しんでいるのかと咎められました。私たちもある人やある物事に対して、人間的な悔やみがある時があります。未練が残る時もあります。しかし、神様の御心でないことに、いつまでも囚われていてはいけません。神様の計画を信頼すべきです。過ぎ去ったことにいつまでも未練を持つことを神様は喜ばれません。新しいことを行われる神様に信頼を置き、その準備をして行く必要があります。神様は、すでに新しい王を選ばれました。

エッサイの子たちを見て王になるのに相応しいと思ったサムエルに、神様は人のうわべを見てはならないとおっしゃいました。神様はうわべではなく、心を見る方であるからです。結局、その宴会に参加した7人の兄弟ではない幼かったダビデが選ばれました。神様の選択と人の選択は違います。人は見えるものを信頼する傾向があります。サムエルさえもそうでした。彼は、すでにサウルという失敗の経験があります。私たちは目で見て自分勝手に考えた後で選んだ選択に、後悔した経験が多くあるでしょう。私たちはいつも自分の目や知恵を信じず、神様に祈って決めなければなりません。

選ばれたダビデには神の霊が激しく下りました。神の霊が離れたサウルにはわざわいの霊が彼をおびえさせました。とても対照的なこの二人が、一つの空間にいるようになりました。わざわいの霊がサウルに臨むたびに、ダビデは竪琴を手にとって弾きました。すると、サウルは元気を回復して良くなり、わざわいの霊は彼を離れ去りました。わざわいの霊が離れ去ったというのは、神の霊が臨んだという意味で解釈しています。神の霊に満たされている人は、おびえていて息苦しい人生を過ごしている人たちに、少しでも息ができて落ち着ける平安をプレゼントすることが出来ます。主の霊が臨まない所には苦しみがあるだけです。自分が行く所どころに主の霊が臨まれるように祈りましょう。それで、人々の心に平安が訪れ、回復があるように祈りましょう。

9月が始まりました。一か月も、主の霊が皆さんに臨まれ、主の平安と恵みが共にありますように。