Ⅰサムエル23:15-29
サウルを避けてダビデとその群れは、あちこちさまよいました。一つの所に長く留まることは出来ませんでした。ケイラからジフの荒野に逃げました。しかし、サウルは兵たちを引き連れ追ってきました。また、再びエン・ゲディの要塞に行って住みます。サウルは追いかけ続け、ダビデは逃げ続ける繰り返しでした。苦難の連続です。
ダビデが逃げる所々にサウルがその後を追って来る場面を読みながら、Ⅰペテロ5:8の御言葉が思い浮かびました。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえ猛る獅子のように、だれかを食い尽くそうと捜しまわっています。」まるで、エサを探し回っている獅子のように、しきりにダビデを追って来るサウルです。今、私たちの生活の中でも苦難が繰り返して起こることもあり得るでしょう。その時に、どうすべきでしょうか。気落ちして座り込んでいるべきでしょうか。神様に向かって不平を言うべきでしょうか。恐れの中でおののいているべきでしょうか。
聖書は、身を慎んで目を覚ましていなさいと言っています。それから、堅く信仰に立って、悪魔に対抗しなさい(Ⅰペテロ5:9)と話します。ペテロは、私たちの兄弟たちも世の中で同じ苦難を通っていると。つまり、あなた一人だけが通る苦難ではないと言うことでしょう。自分一人だけがこんな大変な人生を過ごしていると考えてはならないと言う意味です。ペテロは私たちが世の中でしばらく苦しみにあった後、神様は回復させ、堅く立たせ、強くし、不動のものとしてくださると証言しています。
ダビデは、今、荒野でさまよいながら、訓練を受けているのです。苦難を通してダビデは訓練を受け、一層強くなり、堅く立つ過程を通っていると思います。自分一人で敵対しながら戦うのではなく、主が共にしてくださるのです。
そして、主は苦難の中でのダビデにヨナタンを送られました。ヨナタンはダビデに、「恐れることはありません。父サウルの手が、あなたの身に及ぶことはないからです。」恐れるなと言う言葉は旧約の中で、神様の慰めと励ましの時によく使われる言葉です。「あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。父サウルも、そうなることを確かに知っているのです。」このように、苦難の中を通っている私たちを主は忘れることなく励ましてくださる方です。皆さんは決して一人ではありません。
ヨナタンの立場では、ダビデは父の敵です。しかし、ヨナタンは神様側からダビデを見ました。それで、ダビデに神様の慰めと励ましの言葉を伝えることが出来たでしょう。
今、主の慰めと励ましを必要とする肢体(人)は周りにいませんか。自らの観点ではなく神様の観点から見た時に、神様の慰めと励ましが必要な人はいませんか。神様はその人にどんな御言葉で慰めてくださると思いますか。主が自分を通して働かれることを願いましょう。