誤解される中でも真実に… 2020.10.23

第Ⅱサムエル3:27-39 

ヨアブはアブネルをひそかに呼び出し、殺します。理由は、ヨアブの弟アサエルをアブネルが殺したことに対する復讐でした。ダビデはアブネルが悪であることを知っていましたが、個人的な感情よりもイスラエルが一つになる共同体の益のために彼に善をもって行いましたが、ヨアブは兄弟の復讐という個人的な感情で彼を殺しました。共同体のための心が全く見られない行動でした。

ヨアブがアブネルを殺しましたが、その流れは民たちにとって、ダビデが彼を殺したと誤解するのに十分でした。ダビデも後にその状況のことが分かったはずです。

それにもかかわらず、ダビデはアブネルの死に対して、ヨアブと彼と行動していたすべての兵たちに「衣を引き裂き、荒布をまとい、アブネルの前で悼み悲しみなさい」と言いながら、自ら棺の後をついて行きました。また、彼は泣きながら哀歌を歌い、断食をしました。ダビデのこのような姿を見て、民たちはダビデがアブネルを殺したのではなく、アブネルの死を心から悲しんでいることを認めていました。

ダビデは、敵の軍隊の長だったアブネルを偉大な軍の将だったと評価しています。ダビデはサウルが死んだ時も同じでした。敵とは思わず、一人の死に対して悲しんだわけです。真実なダビデの心が分かります。最初は誤解があるかもしれませんが、真実な心が変わらない以上、いつかはすべての人たちが分かってくれるはずです。人が知らなくても神様は分かります。

また、ダビデは自分の弱さと限界を隠そうとしませんでした。自分は油注がれた王であるが、ヨアブが自分にとって手ごわすぎると告白します。誰でも足りなさがあり、弱さがあります。それを隠そうとして偽りを言い、自分を大きく見せようとします。しかし、ダビデはありのままの姿を見せます。そして、神様に委ね、「主が悪を行う者に、その悪にしたがって報いてくださるように」と祈ります。自分が出来ないことを神様に委ね、恵みを求める姿が見られます。これが知恵でしょう。

自分の力では出来ないことを前にした時、皆さんはどうしているでしょうか。神様の目は、どこででも悪人と義人とを見分けられる方です。これを信じる時に私たちは偽りのない人生を歩むことが出来るのです。

高慢なアブネル 2020.10.21

第Ⅱサムエル3:1-16

サウルの家とダビデの家の間に長い戦いが続いていました。その間、アブネルがサウルの家で勢力を増していたことに注目する必要があります。それは、アブネルが戦いを利用してサウルの家すべてを飲み込もうとしていたわけです。サウルの側女と通じていたことでみて取れます。彼は勝利や国の復興には関心がなく、自分の欲や目的のことばかりに集中していました。サウルの家が滅ぼされるもう一つの原因はアブネルにあるのです。

アブネルは、共同体の将来より自分の利益のみを考える人でした。このような人は警戒すべきです。共同体の健全さと自分の健康のためです。何が共同体を分裂させるかを見極めなければなりません。また、自分もアブネルのように自分の利益のみを求めて生きていないか顧みる必要があるでしょう。聖書は、「あなたは若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちと共に、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(Ⅱテモテ2:22)」と言っています。したがって、私たちは自己中心的な考えと心を捨て、共同体の利益のために励むべきです。

一方、面白いことに、個人の利益を求めるアブネルを通して神様は御心を成し遂げます。アブネルは、イシュ・ボシェテの言葉に腹を立て、サウルの家をダビデの手に渡すと言っています。9節10節を見ると、主がダビデに約束なさった通りのことを行うと言っているのです。

ここで、アブネルがいかに高慢な人であるかが分かります。一つは、神様の御心がダビデにあるのを知りながら、自分の利益のためにサウルの家を利用しています。二つ目は、自分がイスラエルをダビデの手に渡すことにより、神様のご計画を成し遂げるかのように言っています。主君を裏切りながら、表では主のためだと言っているのです。

実際にこれは神様の御心でしたが、アブネルの裏切りにより主の御心が成し遂げられるとは誰も思っていなかったでしょう。神様の働かれる方法を私たちは決して分かりません。ただ、驚くばかりです。したがって、私たちはどんな状況の中でも恐れることも落胆する必要もありません。主を堅く信じて一歩一歩進んで行く人に神様は必ずその御心を現されるからです。

主の約束を信頼できない理由は何かを考えてみましょう。

傷のみ残る戦い 2020.10.20

第Ⅱサムエル2:12-32

サウルの息子イシュ・ボシェテの家来たちとアブネルはキブオンに来ました。一方、ヨアブとダビデの家来たちもキブオンに行きました。キブオンは、当時祭司たちの都市として一番重要だったので、アブネルはそこを占領しようとして行った戦いだったとみられます。

アブネルとヨアブは被害を最小にするため、正面戦を避けて、若者12名づつ出させて戦うようにしました。しかし、全員が死んでしまいました。それで、その土地の名前をヘルカテ・ハ・ツリムと呼びました。それは「鋭い刀の野原」と言う意味です。しかし、ヘルカテを拡大解釈すると「偽り、へつらい」と言う意味もあります。なので、「偽りの野原」とも解釈が出来ます。

アブネルとヨアブは兵士たちの犠牲を減らすため、代表として出したそれぞれの12名はすべて死んでしまい、結局、激しい戦いとなり、多くの兵士たちが死にました。簡単に終わると思った戦いでしたが、決して簡単ではありませんでした。最初の24名の兵士たちが死ぬ光景はとても悲惨だったでしょう。事実、これが戦いの典型的な姿なのです。戦う時には、皆自分が勝利すると思います。しかし、実際には、皆が傷つき、被害を受け、多くの死者がでないと戦いは終わりません。

私たちは、これを心に留めておくべきです。戦いを通して何かを得ようとする時、「偽りの野原」で何があったのかを覚えなければなりません。戦いが私たちを騙すという真理を悟るべきです。戦いと言う偽りの幻の中で、戦いの生活をおくっているのではないでしょうか。刀を持って戦う戦争ではないにしても、私たちの職場で、隣人たちとの関係の中で見えない戦いをしながら生きているのではないでしょうか。戦いは私たちに有益なものではありません。傷と悲惨さのみさを残すのです。

26節を見ると、アブネルはヨアブに叫びかけます。「いつまでも剣が人を食い尽くして良いものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。いつになったら、兵たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。」アブネルの言葉のように、最後にはひどい苦痛のみが残るでしょう。自分が勝つと思い、勝ったと思うかもしれませんが違います。戦いは、皆にとって苦痛であり傷です。死にまでも至ります。また、自分が憎しみ、傷を与えるのは自分の兄弟であるという事実です。家族を憎しみ、共同体の人たちと戦うのは、結局、自分の傷になることだと言うのが分からないのです。私たちは戦いではなく、愛しながら生きるべきです。主は私たちに平和を与えるために来られました。お互いに愛し合い、祈り合い、立たせる関係になるために祈りましょう。

最後まで同じ心で 2020.10.19

第Ⅱサムエル2:1-11

ダビデがツィクラグにとどまっている時にサウルの死の知らせを聞きました。彼は悼み悲しんで泣き、哀歌を作って歌いました。それから、自分を殺そうとしていた人が死んだので、すぐに故郷に帰ることもできました。しかし、ダビデは直ちに出発しませんでした。神様に聞いて答えられてからユダの町に帰ります。また、ユダの何処に行くべきか細かく神様に伺うダビデの姿が見られます。状況がよくなったと言って自分勝手に行わず、最後まで神様に頼るダビデです。

神様の御心を伺ってからユダに上って行ったダビデを待っていたのは何でしょうか。ユダの人たちは彼を迎え入れ、油を注いでユダの王にしました。長い間逃亡生活をしなければならなかったダビデでしたが、これからは王です。ダビデは考えもしなかった待遇に驚き、感動したに違いありません。最後まで神様の御心に従う時、神様はすべてを備えてくださり、不足なく満たして下さる神様を経験することが出来ると信じます。その後、ダビデは七年六カ月の間、ユダの王として仕えることになります。

王になったダビデが、一番最初に行ったことは何でしょうか。サウルの遺体を携えてきて葬ったヤベシュ・ギルアデの人たちのことを聞いて、彼らに使者たちを送り、感謝と祝福の言葉を伝えました。変わらないダビデの心が見られます。ダビデは最後までサウルを神様から油注がれた王として扱いました。彼が死んだ時にも喜びませんでした。ヤベシュ・ギルアデの人たちに行った偽りないダビデの姿を神様は喜ばれたと思います。

ヤベシュ・ギルアデ人たちに、強く勇気ある者になれと励まし、自分が王になったと言います。この言葉はこれからダビデが責任を持って彼らを助けると言う約束のように聞こえます。ヤベシュ・ギルアデの人たちはベニヤミン族と深い関係がある人たちです。サウルがベニヤミン族だったので、彼らも最後まで信頼関係を持ってサウルを葬ったのでしょう。ダビデはこれを喜んだはずです。

今日の御言葉は、最後まで神様に頼り続け、また、サウルに真義を守ったヤベシュ・ギルアデの人たちの助けになると約束したダビデの姿があります。私たちの信仰もこのようであるべきだと思います。最後まで主との関係を持ち続けることで、導き守ってくださる主を毎日経験できると信じます。

福音のために共に働く人たち 2020.10.16

コロサイ書4:6-18

使徒パウロは、安否を尋ねることで手紙を終えます。コロサイ書の中でも色んな人たちの名前が言及されています。そのすべての人が使徒パウロと共に働いた人たちの名前です。そして、その人たちの出生が皆違うことに恵みを覚えます。ユダヤ人もいれば異邦人もいます。自由人もいれば奴隷だった人もいます。また、過去には関係が良くなかった人もいます。

その中でティキコはパウロがとても信頼した人でした。彼は、コロサイ書だけではなくエペソ書にも登場します。手紙を預けるほど信頼を置いていた人です。パウロはティキコを紹介するたびに忠実な奉仕者だと呼ぶほどでした。

オネシモはコロサイから来た人でしたが、実はピレモンの奴隷でした。獄中でパウロに出会い、イエスを信じてパウロと共に働くほど成長した人です。

バルナバのいとこマルコも言及されています。このマルコは一次伝道旅行の時に耐えられなくなって途中で帰ってしまった人でした。このことでパウロはバルナバと喧嘩し、二人が別れるようになったわけです。なので、パウロの立場であればマルコについて良い思いは何一つないでしょう。しかし、今は、パウロの働きを助ける同労者になっています。特にマルコはアリスタルコとユストと共に割礼を受けたユダヤ人で、異邦人宣教に協力し、パウロの力になったと、また、パウロはこの3人から慰めをもらったと言っています。

このように、福音は人を変える力があります。ギリシャ人であれユダヤ人であれ、自由人であれ奴隷であれ、福音の中では差別がありません。また、過去にどんなことがあったとしても再び一つになれることを見せてくれるのです。福音を伝えることで、個人の感情が先になってはいけません。私たちは福音の中でお互に赦し合い、愛し合って一つになりました。これが新しい人を着た人の姿でしょう。私たちの中で、今も過去のことによってお互に誤解し、間違った情報により心の壁を築き、憎しみを抱いているのではないか顧みましょう。そのようなものが福音の障害になるなら、相手の問題ではなく自分の問題であるのは確かです。

偉大な使徒パウロも一人で福音を伝えたのではなく、共にする人たちがあったこそ慰めになり、使命を果たすことが出来ました。神の国のための同僚者たちであり、自分によって慰めになったと告白しています。自分も誰かの力になり、慰めになれるのです。また、自分のとなりにいる人を大事にする心が必要です。

 最後に使徒パウロはコロサイ教会だけではなくコロサイ教会と繋がっている他のところにも挨拶をしています。他の地域まで福音を伝えたいと願う心でしょう。ラオディキアとヒエラポリスにいる人々です。そこにエパフラスが福音を伝えたからです。今、エパフラスもパウロと共に牢の中にいます。パウロは、彼が牢に繋がれていることを覚えなさいと言っています。つまり、これからはコロサイ教会の信徒たちが福音を持って出て行くべきだと、パウロの切なる願いではないでしょうか。

パウロやエパフラスのような人たちだけが福音を伝えるのではありません。私たち共同体の中の一人だけ働くのではなく、皆が、主のための働きを継続していくべきです。それが教会の正しい姿だと思います。