何を大事にしていますか。 2020.08.29

Ⅰサムエル15:1-15

人は選択によって、何を心の中心にしているかが現れます。サウルの選択から現れた彼の本音は、何だったのでしょうか。神様がサウルに「言って、アマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい(3節)」と命令なさいました。その命令の本質は、アマレクとの戦いから勝利するだけのことではなく、痕跡さえも残さず根絶やしにすることでした。「聖絶する」と翻訳された「ハラム」と言う言葉は、捧げるという意味があります。

アマレクとの戦いは軍事的な意味を超えて、聖絶することにより、神様に捧げるという祭祀的な意味があります。アマレクはなぜ聖絶の対象になったのでしょう。アマレクはエサウの子孫たちで、ユダヤの地域の南の荒野を拠点として略奪をしていた民族でした。イスラエル民族がエジプトから脱出してその道中で、イスラエルが疲れて弱っている時、アマレクは後ろの落後者をみな切り殺したことがありました。この事件以来、アマレクはイスラエルの仇になります。アマレクの立場では、一つの民族を略奪したに過ぎないかも知れませんが、神様の目では、神様の大きな救いの働きに真正面に逆らう行為でした。アマレクは神様に敵対する象徴となったわけです。アマレクとの戦いは神様の国を堅く立てるための霊的な戦いの延長戦にある大事な戦争だったのです。

サウルはアマレクと戦いなさいという神様の命令には従順でしたが、聖絶しなさいという命令には不従順でした。残さず根絶やしにしなさいという命令に不従順であった理由は何でしょうか。「アガグと最も良いものを惜しんで(9節)」。サウルが聖絶せずに残した理由は神様の命令より、羊や牛などを一層大事にしていたからでした。自分の名誉のためにアガグを残し、自分の所有のために肥えた羊と牛を残したわけです。サウルはアマレクとの戦いで、勝利しましたが、神様に従順となるべき霊的な戦いでは敗北しました。サウルが本当に大事に思っていたのが何であったのかが明らかに現れたのです。神様には適当に従順なふりをし、決定的なものは惜しんで自分の物として取る、自分から進んで捧げられない偽信仰が問われる部分です。

神様の人は神様の御心を読み取ることが出来るべきだと思います。アマレクとの戦いから勝利して帰還するサウルと兵たちを見ながら民たちは歓声をあげたでしょう。捕虜になったアマレクの王アガグを見た時には、一層大きな歓声が上がりと興奮があったと思います。しかし、神様の御心はどうだったでしょう。不従順であったサウルのことで悔やまれるとおっしゃる神様の御声を聞いてサムエルは夜通し主に向かって叫んで祈りました。サウルの不従順に対する神様の反応は、直ちに裁くのではなく、悔やみ悲しまれました。

しかし、状況を読めなかったサウルはサムエルに会って話しました。「あなたが主に祝福されますように(13)」。どんな話しぶりだったでしょう。戦争で勝利して戦利品を得て、自分に向かって歓声を上げている民たちを見て、サウルはきっと興奮したはずです。

神様は私たちに完璧な従順と使命を果たすことを願ってはおられません。神様の命令に相応しい人ではなく、神様の心に相応しい人を捜し求めておられます。神様の心を探り、神様の心を成し遂げて行く人こそ、神様と共に歩むことが出来ます。また、神様の後悔は感情的な挫折を意味するのではなく、御心を変えられるという意味です。私たちの行動によって、神様は御心を変えられると気づくことにより、私たちの霊的な緊張感が保たれるようになさります。

主に祈る人生   2020.08.28

Ⅰサムエル14:36-52

サウルの性格はかなり衝動的であり、自己中心的であることが伺えます。民たちが肉を食べて気力を回復したのを見たからなのか、夜、ペリシテ人を追って行こうとします。戦争について神様に聞く姿はありません。いつも、自分の頭で考え、判断し、それを主張します。また、祭司の言葉にしたがって神様に聞きましたが、答えがなかったのを見て、だれの罪のせいなのか確かめるように命令します。それで、たとえ自分の息子ヨナタンであっても必ず死ななければならないと言います。深く考えもしないで、衝動的に口に出してしまいます。罪があれば、その人を見つけ出して、神様にどうすれば良いか聞いてみるのが正しいはずですが、今回も自分で決めてしまいます。結果は自分の息子ヨナタンでした。しかし、民たちによってヨナタンを殺すことは出来ませんでした。ヨナタンが死ななくて良かったと思ったはずですが、王としての言葉を守ることが出来なくなりました。

私たちはいつも神様の御言葉に従順となって生きなければなりません。自分の考えと計画ではなく、神様に祈ることによって導きをいただくべきでしょう。それが、信仰です。自分の考えで正しいと思うままに行動するのは、神様に仕えることではありません。士師時代の特徴は何でしょうか。それぞれ自分の目に良いと映ることを行っていたのです。その中に神様はおられません。

今回もヨナタンとサウルは、また違う姿を見せています。くじによりヨナタンに罪があると導かれました。ヨナタンはサウルの誓いを聞きませんでした。また、戦争で勝利することができた大きな功績は彼にありました。しかし、いかなる言い訳も言いません。サウルの命令は間違っていましたが、それに不従順であった自分の罪を認め、死ぬことも恐れません。サウルがサムエルから叱責された時、ぐずぐず弁明した姿とずいぶん違います。結局民たちの弁護でヨナタンは救われます。

ここで、納得のいかない点があります。47節でサウルが「どこに行っても彼らを敗走させた。」と書いてありますが、神様の主権を認めないで、自分の考えで生きていても、ものごとはうまくいくのかと言う質問です。それなら、何故、人は神様に従順となって生きるのでしょうか。それは、神様なしでもうまく行くという間違った経験から来るのです。このような経験が繰り返されると、ついには自分の目に良いと映ることを行いながら生きる人生になります。神様と関係ない人生になります。52節、勇気のあるもの、力のあるものをみな、召しかかえたということは、戦争において神様を頼らなかったことを端的に見せています。

今、自分は自分の考えと判断で生きているのか。主の御心に従って生きているのか。

 

変化を起こさせる信仰 2020.08.26

Ⅰサムエル14:1~23

今日の箇所では、神様より人に寄り頼んでいたサウルと神様を信頼したヨナタンの姿が比較されます。サウルはペリシテ人たちを恐れ、600人の兵士たちと共にザクロの木の下に座っていました。「座っていた」と言う表現から何が感じられますか。敵が怖くて逃げつつ、疲れている様子、何もできない無気力な姿が感じ取られます。また、ともにいた兵たちは最初は3000人でしたが、逃げた人たち、裏切った人たち、除くと600人でした。彼らも、恐れおののいていました。一国の王と選り抜かれた兵というには、みすぼらしすぎます。

これに対して、ヨナタンはどうでしょう。道具持ちの一人の若者と一緒に敵側の先陣の方へ行きます。動いています。何もできないと言って無気力感に囚われているのではなく、何かをしようと動いてる彼の心が見られます。今の状況を恐れ、座り込んでいるのではなく、自分ができるものを探している姿です。それも、ただ一人の人と共にです。道具持ちもヨナタンを信頼しました。自分の主人に「何でも思う通りにやってください。共にしますから」と信頼を寄せ、ヨナタンを励ましてくれる部下でした。サウルを信頼し切れなくて逃げてしまった部下たちと違います。

また、ヨナタンはペリシテ陣営を見て、自分が話した通りにことが進むを見て、神様が自分と共にいてくださると確信を持ちました。彼は、ためらわずに、行動に移しました。「多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」と告白し、神様の力を信頼します。

たった二人きりであったとしても神様が共におられるなら、勝利できると信じたわけです。ヨナタンの信仰の通りに敵の陣営に渡って行って最初に20人くらいを打ち取りました。神様はペリシテ陣営全体に恐れを起こさせられました。

ペリシテ人たちは「剣を持って同士討ちをしていて~」。このようなおかしい場面は、ギデオンがミディアン軍と戦う時にもありました(士師記7:22)。ここでも神様は、ペリシテ人たちの心と精神を混乱させられ、同士討ちして自滅するようになさったわけです。このような状況は、すべての戦争において司られる神様の御働きの結果でした。また、ヨナタンの信仰と勇気と挑戦に対する神様の助けの結果でもありました。

一人の人の信仰が多くの人たちの心を湧き立たせました。他人に変化を与える人生になりましょう。他人に挑戦を与える人生になりましょう。それは、神様のみ信頼する信仰を持った時にこそ可能になります。

 

主を覚えよう 2020.08.24

Ⅰサムエル12:1~25

王を立て国を新しくする前の、サムエルの預言者としての最後の説教だと言えます。

サムエルは神様がイスラエルをどのように導かれたかを簡単に話しています。エジプトで導き出されたことから、士師を立てられ、今まで導いてくださった神様を賛美しています。また、イスラエルがその神様を離れ、世に従い王を立てることを求めたのが、いかに神様の前で悪であったことなのかをもう一度確認させています。それは小麦粉の刈り入れの時期にめったには降らない雷と雨を降らせることで証明しました。それを通して神様の御心を知らせたのです。

しかし、サムエルは、罪を犯したと言って神様から離れてはならないと忠告しています。偶像崇拝をせず、心を尽くして神様に仕えるように勧めています。なぜなら、「主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない」(22節)からです。神様は私たちを捨て去りはなさりません。

サムエルの最後の言葉は、「主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかをよく見なさい。」と言いました。しかし、いつまでも守られることだけをなさる神様ではありません。私たちが続けて悪を行えば、私たちと私たちが立てた王が共に滅ぼされることをも話しています。

自分が立てた王とは何ですか。世が好ましくて従おうとするのが王でしょう。神様の御言葉よりもっと慕い求めるのが、自分が立てようとする王です。私たちは、覚えるべきです。自分を導いてくださった神様を覚えなければなりません。自分にしてくださった神様の驚くべき御業を覚え、離れてはなりません。自分が立てた王も結局は滅ぼされるしかないという事実を覚え、神様のみに仕えて行きましょう。

 

神様が立ててくださいます  2020.8.22

Ⅰサムエル11:1-15

サウルは神様から王として選ばれ、油注がれましたが、民たちまでがサウルを王として認めたわけではありません。サウルも自分を認めてくれないことについて何の不平もありませんでした。人たちに認められることは決してたやすいことではありません。その人の本当の姿が現れるまで時間がかかるものです。

王として選出されたサウルは、相変わらず牛で畑の仕事をしていました。王にはふさわしくない仕事をしていました。また、サウルはイスラエルの12部族の中で一番小さかったベニヤミン族の出身でした。王が出そうな背景でもないし、影響力もありませんでした。つまり、多くの人たちが認められない所がありました。しかし、サウルが王になったのは人の考えを乗り越える神様の選択と摂理であることが分かります。

ついに、11章の最後では、サウルを認めなかった人たちまで認めざるを得ない大勝利をアンモン人との戦いで得ました。神様の御働きでしょう。アンモンの侵略のことを聞いた時、彼の怒りが激しく燃え上がった理由は神の霊が下ったからです。自分を認めてくれと苛立たなくても神様が立てられた人は主が導いてくださいます。権威と力で治めると短時間で認められるかもしれませんが、民たちの心を得ることは難しいでしょう。しかし、主の導きに従順になり従うと、時間がかかるかもしれませんが、堅固な統治が続けられます。

自分を立ててくださり、導いてくださる方が神様であることを覚えましょう。自分の力ではできないことを認めましょう。主が立ててくださることを信じて従順となり、自分の居場所で黙々と与えられたことに忠実であれば、必ずチャンスが訪れます。その時に神様に栄光を帰せば良いです。

15節を見ると民は皆ギルガルに行きました。ギルガルはサムエルが祭壇を築き、神様に礼拝を捧げたところです。そこで、「主の前に」という単語が繰り返して出て来ます。すべてのことは主がなさったという告白であり、その方に栄光を捧げたことが分かります。

自分を導いてくださる神様を認め、栄光を帰する人生になりましょう。