Ⅱサムエル15:13-23
アブサロムが謀反を起こします。この本文を見るとⅡサムエル12:10-12節の神様の懲らしめの御言葉が思い浮かびます。なので、ダビデもアブサロムの反逆を神様の懲らしめとして受け入れたかも知れません。そうと言っても、この過程が軽く過ぎ去るものではありませんでした。自分の過去の過ちを顧みなければならなかったし、多くの人たちの裏切りにも耐えなければなりませんでした。愛する家庭の破りも通りました。これはダビデが歩むべき荒野だったのです。
ダビデは家族と自分に従う家臣たちを連れて、アブサロムを避け、荒野に入ります。ヨシュアがイスラエルの民を連れて約束の地に入ったその道でした。しかし、彼の荒野の道は、ただ苦しみのみ残る傷の時間ではありませんでした。アブサロムを避けて荒野に入ったダビデに、王としてではなく神様の前で自分が誰なのかを顧みる時間でした。神様の御心が何かもう一度悟ることが出来たでしょう。これは、特別な悔い改めの時間であり、主の善なる恵みに裸の自分を向ける時間でした。荒野は、捨てられる裁きの場所ではありません。そこは、御自分の御心通り、万物を創られ、治められ、司られる主との回復の場所です。
ダビデはアブサロムの謀反を単純な政治的軍事的な問題としてとらえていません。神様との関係を探り、何を目指して何を頼って生きるべきか整理する時間として受け入れました。荒野の時間はダビデのための時間だったのです。もし、私たちが荒野にいる時、次の御言葉を覚えるべきです。「もしあなたがたが、すべての子が受けれいる訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。(へブル12:8)」
荒野は訓練の場所でした。モーセも、エリヤも、ダビデも、イエス様も荒野を通りました。その中で訓練を受け、神様との関係を深めました。私たちもその同じ道を通る時があります。その時間を恐れないで、一層前に進む時間として迎えるべきだと思います。
ダビデが荒野の時間を乗り越えることが出来たのは、彼と共にいた人たちがいたからだと思います。エルサレムから逃げる時、権力を貪る人たちは彼を捨て逃げたはずです。しかし、彼のとなりには共にする人たちがいました。15節、家来たちはダビデに言います。「私たちは、王様の選ばれるままに致します」。また、民たちも彼の後について行きます。他に、クレタ人、ペレテ人、ガテの600人もダビデに従いました。彼らはダビデがサウルを避けて逃げる時に共にした人たちでした。その中でイタイと言う人は21節で、「王様がおられるところに、生きるためでも死ぬためでも、このしもべも必ずそこにいます。」と言います。
彼らは異邦人でした。あえて、ダビデと共に行く必要はありませんでした。しかし、真意を守り、忠誠を誓います。自分の利益のためならダビデを捨てたでしょう。しかし、ダビデと共に苦難の道を選びました。私たちも、自分の利益によって主に従うのではなく、自分の王なる主のために死でも命でもその道を共に従う信仰の人になるように祈りましょう。