高慢と従順  2020.11.26

Ⅱサムエル18:9-18

アブサロムは、ダビデの家来たちから逃げているところ、彼の頭が樫の木に引っ掛かり宙づりになりました。ついに、アブサロムはこの姿で殺され、戦いに破られます。アブサロムが死んだ理由は何でしょう。むろん、神様の裁きだと言えますが、主なことはアブサロムの高慢だと言えます。Ⅱサムエル14:26、年の終わりにアブサロムの髪の毛を刈って測ると何と2.3キロの重さだったそうです。髪の毛を始め非の打ちどころのない美しさが彼の自慢でした。しかし、その自慢のものによって死をもたらされます。聖書は「高慢は破滅に先立ち(箴16:18)」と言っています。アブサロムの反逆は高慢な心から始まりました。王としてダビデより自分の方が優れてると思った霊的高慢でしょう。これは王に油注がれる神様に対する挑みです。

枝に引っ掛かったアブサロムは、自分は何も出来ない存在であることが分かったでしょう。アブサロムは生きている間、自分のために一本の柱を立てていました。自分の名をあげたい夢がありましたが、主の関わりのない夢は反逆者という汚名のみ残りました。ヨアブの手に殺されることにより彼の夢は水泡になってしまいます。神様を離れては私たちは何も出来ない存在であることを心かけるべきです。神様に頼るとき主が高く上げてくださるでしょう。

ヨアブは、アブサロムを殺さないように命じたダビデの命令に不従順しました。普通の兵士も王様の命令に従順するのに、一層厳しく守るべき軍団長がダビデ王の言葉を無視しました。ヨアブはいつも自分勝手に行動する傾向がありました。高慢が廃滅の先立ちであれば、従順は義人になるに先立ちだと言えるでしょう。ヨアブはこの事件以来、下り坂の道を歩むようになります。従順というのは自分のものを降ろすことです。自分の考えを先に立たせるのではなく主の御言葉に優先して従うことであり、そのような人が祝福されると信じます。

例え、銀千枚をくれるにしても王様の命令に不従順することは出来ませんと言った名も知られてない兵士の告白の中で従順の重さが見つかると思います。主が願っておられるのはこのような姿ではないでしょうか。一言で従順というのは自分が死ぬことです。死ぬ時に復活があります。主の御言葉に死んで従順するものになりましょう。

 

主の御心を抱きましょう。 2020.11.25

Ⅱサムエル17:24-18:8 

ダビデはマハナイムに着きました。反面、アブサロムは共にする人たちとヨルダン川を渡るのに時間がかなりかかりました。その分、ダビデは有利な地域で戦いの準備をすることが出来ました。これは、すべてフシャイの助言でした。また、マハナイムに来た時、ショビ、マキル、バルジライと言う人たちが多くの食糧と必要品を持って来ました。急いで逃げ出たダビデと兵士たちには食糧を始め多くのものが足りなかったに違いありません。なので彼らが持ってきたものは、ダビデと共にいた人たちに大きな力になったと思います。

神様はダビデを安全に導かれただけでなく、必要なすべてを満たして下さいました。このように主は私たちのすべての必要がご存知の方です。その助けの通路は何ですか。主は人たちを通して働かれます。マナのように天から落ちません。困窮の時に助けてくださる主の恵みを覚えましょう。

ダビデは御怒りの中でも慈しみを施される主に出会います。例え、自分の罪のことでアブサロムの謀反が起きましたが、それにもかかわらず懲らしめの中で自分を導き、絶望の中でも恵みを忘れない主を経験します。それで、ダビデは詩篇23篇で自分の羊飼いであられる主がおられるので乏しいことがないと告白します。ダビデのように主に従う人たちには、いつも主の助けがあることを忘れないようにしましょう。絶望の中でも諦めないで、もう一度主の導きのために祈りましょう。何も見えない状況の中でも主を離れずに待ち望むと、主は必ず私たちを覚えられます。捨てられることはありません。それを信じましょう。

ダビデはアブサロムと戦いを準備しながら千人隊長百人隊長を任命します。また、全部隊を三つに分けて指揮の人を立たせます。また、自分も戦いに出て行くと言います。大変な状況ですが、王としてやるべきことはやる彼の姿です。リーダーが座り込んでしまうのはだめです。自分がやるべきことをやらないとリーダーとしての資格を失ってしまいます。戦いに行くと言っているダビデを部下たちは引き止めます。なぜなら、ダビデは誰よりも重要であることが分かっているからです。指導者が部下たちを大事にするように、部下たちも指導者であるダビデを愛し大事にしていることが分かります。ダビデは彼らの心を受け入れ、祝福し送ります。

もう一つは、三人の隊長にアブサロムをゆるやかに扱ってくれることを頼んでいます。謀反を起こした息子であっても、父親としてすでに赦しているのが分かります。父親の心が変わってないことが分かります。王として謀反は鎮めるべきですが、父親として赦し愛しているのです。このダビデの心が神様の御心ではないかと思います。私たちは主の前で資格がないものですが、主は限りなく私たちを愛し赦しておられます。私たちも主の心を抱いて信徒を見、兄弟姉妹のことを心に抱いて祈りましょう。

 

御心にしたがいましょう。 2020.11.24

Ⅱサムエル17:15-23

主の助けにより、アブサロムはフシャイの助言を選びました。しかし、だれが見てもアヒトフェルの助言が優れたものでした。アブサロムがいつダビデを攻撃するか不安になったフシャイはツァドクとエブヤタルにすべての話を伝え、ダビデに世を過ごさないでヨルダン川を渡るようにしました。その話をエルサレム城の外で待機していたヨナタンとアヒマアツに一人の女奴隷が行って伝えます。しかし、二人を見たある若者がアブサロムに告げました。二人はバフリムに住むある人の家に隠してもらい、無事にダビデにその知らせを告げることが出来ました。

このように、大変な時に自分を助ける人がいることを覚えましょう。城の外にいた二人に告げた女奴隷、バフリムのある人の妻、名前が書かれてない人たちの助けがありました。ヨナタンとアヒトフェルも命を掛けて伝言を伝えました。弱いと思われる人であっても、困難の時に自分のとなりにいてくれる人が本当の友だと言えるでしょう。自分が現在の場所にいいられたことも誰かの助けと犠牲と祈りがあったことを忘れないようにしましょう。いくら良い計画があるとしても、助ける人、献身する人がいないと、物事は成り立たない場合が多いです。私たちのために今も助けておられる聖霊様を覚え、今日の一日も感謝を持って勝利しましょう。

アヒトフェルはダビデがヨルダン川を渡ったことを耳にしたでしょう。そして、自分の助言が実行されないのを見て、自分の町に帰り、自ら首をくくって死にます。優れた知恵があったので、これからの成り行きがどのように進行していくかが分かったはずです。いくら優れた知恵を持っていても、神様が助ける人を勝つことが出来ないのです。また、主の御心を離れると、このように一瞬にすべてが崩れてしまいます。

アヒトフェルの死は、まるでイエスキリストを裏切ったイスカリオテユダのようです。アヒトフェルはダビデと近い人でしたが、バテ・シェバのことで(アヒトフェルは彼女の祖父)個人的な復讐の思いに取られたのかダビデを裏切ってしまいます。彼はダビデの徹底的な悔い改めと涙を知っているにも関わらず自分の復讐の心を捨てず神の御心に背いてしまいました。イスカリオテユダも自分の考えと違うイエス様にがっかりして、主を裏切りました。このように神の御心を離れた人の最後は悲惨な死でした。

私たちはどんな状況の中でも神様の御心に反する道に行ってしまわないように気を付けましょう。憎しみではなく愛するのが主の御心です。仲たがいではなく、平和をもたらすのが主の御心です。裏切りではなく従順して従うのが主の御心です。私たちは神様の奥義を預かっている者たちです。自分の意志と神の御心が違う時も主の御心に従う忠実なものになるべきです。

今日の一日も自分のために犠牲し、献身し、祈ってくれる人たちのために感謝して祈りましょう。今、自分は主の御心の通りに歩んでいるのか帰り見ながら祈りましょう。

 

2020.11.20 荒野ー「回復の時間」

Ⅱサムエル15:13-23

アブサロムが謀反を起こします。この本文を見るとⅡサムエル12:10-12節の神様の懲らしめの御言葉が思い浮かびます。なので、ダビデもアブサロムの反逆を神様の懲らしめとして受け入れたかも知れません。そうと言っても、この過程が軽く過ぎ去るものではありませんでした。自分の過去の過ちを顧みなければならなかったし、多くの人たちの裏切りにも耐えなければなりませんでした。愛する家庭の破りも通りました。これはダビデが歩むべき荒野だったのです。

ダビデは家族と自分に従う家臣たちを連れて、アブサロムを避け、荒野に入ります。ヨシュアがイスラエルの民を連れて約束の地に入ったその道でした。しかし、彼の荒野の道は、ただ苦しみのみ残る傷の時間ではありませんでした。アブサロムを避けて荒野に入ったダビデに、王としてではなく神様の前で自分が誰なのかを顧みる時間でした。神様の御心が何かもう一度悟ることが出来たでしょう。これは、特別な悔い改めの時間であり、主の善なる恵みに裸の自分を向ける時間でした。荒野は、捨てられる裁きの場所ではありません。そこは、御自分の御心通り、万物を創られ、治められ、司られる主との回復の場所です。

ダビデはアブサロムの謀反を単純な政治的軍事的な問題としてとらえていません。神様との関係を探り、何を目指して何を頼って生きるべきか整理する時間として受け入れました。荒野の時間はダビデのための時間だったのです。もし、私たちが荒野にいる時、次の御言葉を覚えるべきです。「もしあなたがたが、すべての子が受けれいる訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。(へブル12:8)」

荒野は訓練の場所でした。モーセも、エリヤも、ダビデも、イエス様も荒野を通りました。その中で訓練を受け、神様との関係を深めました。私たちもその同じ道を通る時があります。その時間を恐れないで、一層前に進む時間として迎えるべきだと思います。

ダビデが荒野の時間を乗り越えることが出来たのは、彼と共にいた人たちがいたからだと思います。エルサレムから逃げる時、権力を貪る人たちは彼を捨て逃げたはずです。しかし、彼のとなりには共にする人たちがいました。15節、家来たちはダビデに言います。「私たちは、王様の選ばれるままに致します」。また、民たちも彼の後について行きます。他に、クレタ人、ペレテ人、ガテの600人もダビデに従いました。彼らはダビデがサウルを避けて逃げる時に共にした人たちでした。その中でイタイと言う人は21節で、「王様がおられるところに、生きるためでも死ぬためでも、このしもべも必ずそこにいます。」と言います。

彼らは異邦人でした。あえて、ダビデと共に行く必要はありませんでした。しかし、真意を守り、忠誠を誓います。自分の利益のためならダビデを捨てたでしょう。しかし、ダビデと共に苦難の道を選びました。私たちも、自分の利益によって主に従うのではなく、自分の王なる主のために死でも命でもその道を共に従う信仰の人になるように祈りましょう。

 

ダビデの信仰 2020.11.12

第Ⅱサムエル12:15-31 

罪は赦されるが、罪の対価は払わせられる神様であることをもう一度確かにされた事件です。主はダビデを赦されましたが、姦淫を通して生まれた子供の死と言う苦痛を与えられました。ダビデはその子の死を通して罪の辛さが分かったはずです。神様はダビデに罪の欲を治めるべきであることを学ばせたのです。

子供が病気になると、ダビデも普通の人たちのように断食しながら神様に祈りました。周りの人たちは止めさせようとしましたが、ダビデの祈りは一週間も続きました。その時間、ダビデも共に死んだのだと思います。断食と言うのは、自分が死ぬことを意味します。そして、主の恵みを請いました。しかし、結果はどうでしょう。主の御言葉通り、子供が死にました。

家来たちはその子のことをダビデに告げるのを恐れました。子が生きている時さえ何も食べずに地に伏していたのに、もし、その子が死んだことが分かると何か悪いことが起こるかも知れないと思ったからです。しかし、ダビデは家来たちの考えとまったく違う態度を見せました。その子が死んだことが分かると、ダビデは地から起き上がり、体を洗って、主に礼拝し、食事をとりました。

ダビデがこのような態度を取った理由は何ですか。神様の御心を変えることが出来ないことを知ったからです。つまり、主の主権であることを認めた行為です。これがダビデと他の人と違う信仰でしょう。

普通の人たちは、自分の祈りが答えられないとどうしますか。落胆します。病気が治らなかったり、家族を失ったりすると気落ちしてしまいます。ある人は主を否定さえします。しかし、ダビデは命が主にあることを認めました。神の主権を認めました。

ですから、自分が何も出来ない時には、断食でもやって主の恵みを求めましたが、主の御心が確かになった状況ではそれを認め、日常の生活に戻りました。私たちも主の主権を認める信仰の人になるために祈りましょう。

主の前に祈り、主の主権を認めたダビデに主は大きな恵みを施され、祝福されます。ダビデは息子を失ったバテ・シェバを慰め、彼女のところに入り、彼女と寝ました。聖書はこれ以上バテ・シェバをウリアの妻と言わないで、ダビデの妻と書くことによりバテ・シェバを認めているのです。そして、ソロモンが生まれました。主は彼を愛され、預言者ナタンを送りエディデヤと言う特別な名を与えられました。また、ダビデは再び戦場に出て戦います。そして、アンモン族を破り、領土を拡張します。主の恵みです。

ダビデは、再び主に拠り頼る人になりました。罪の対価を払いましたが、彼はその以前より一層主を愛する人、主を頼る人になりました。今日の私たちも主を一層頼り、信頼する人になりますように祈りましょう。