関係を通しての成長 2020.10.14

コロサイ書3:12-4:1 

使徒パウロは新しい人を着なさいと言っています。新しい人を着ることは、ただイエスキリストの救いの恵みから始まります。それでは、新しい人を着るとはどんな意味でしょうか。具体的に深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着ることです。それから、最後に赦すことです。なぜなら、キリストが私たちを赦されたからです。その赦しは、心の中にある人に不満を抱いたとしても赦すように言っています。これは、頼みではなく命令です。主の命令に従順すべきでしょう。不満を口から出して話してしまえば、その不満は続けて大きく拡散されるものだからです。

使徒パウロはこのすべての上に愛を付けなさいと言っています。愛はすべてを結ぶ帯だと。つまり、愛の心があれば、今まで話したことが実践できます。主は十字架の上にご自分を付けて殺した民たちを赦されました。愛されたからこそ可能でした。私たちも兄弟姉妹を愛する心があれば、新しい人を着ることが出来るのです。

また、大事なことは、感謝だと言っています。不満の代わりに感謝を告白するのです。言葉であれ行いであれ、何かをする時には、主イエスによって行い、神に感謝するようにと。良いことについて感謝することは誰であれ可能ですが、感謝が出来ない状況の中でさえ感謝ができるのは、新しい人を着た人のみ可能なことでしょう。

新しい人を着た人は、御言葉の中に留まるのです。主の御言葉が自分の中に満たされる時、豊かな実を結ぶことが出来るのです。その実はどのように現れますか。18節以降のように人間関係の中で実を結ぶのです。信仰生活は一人で修業するものではありません。生活です。つまり、人との関係の中で生活しながら、生活の中で御言葉通りに生きるのです。なので、一人での信仰生活は成長が遅いし、無理だとまで言えるでしょう。夫と妻、親と子供たち、主人と奴隷のように、一番近い関係の中で自分を隠すことは出来ません。この関係の中で自分が本当に新しい人を着たものとして実を結んでいるのか確認ができるのです。

また、更に、何をするにも主に対してするようにしなさいと言っています。私たちが仕える方はキリストだからです。私たちは、人の前で生きるものではなく、主の前で生きるものです。今日一日も主の前で生きていく私たちになりますように祈りましょう。

古い人を脱ぎ捨て新しい人を着なさい 2020.10.13

コロサイ書3:1-11

私たちは罪に対しても、肉に対してもすでに死んだ者です。ですから、今は、昔の自分ではありません。そのため、地にあるものを思わず、上にあるものを求めるべきです。地にあるものは何ですか?みだらな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲です。特に貪欲は偶像礼拝だとまで言っています。それに、怒り、憤り、悪意、ののしり、口から出る恥ずべき言葉も捨てなければなりません。自分はキリストと共に栄光のうちに現れる存在であることを忘れてはいけません。

上にあるものを思いなさいと言うのは、天におられるイエスキリストを絶えず求めなさいと言う意味です(1節)。求めなさい、思いなさいと言う言葉は現在命令形です。これは、自然には起こらない、今あることについて意志を持って努めなければならないという意味です。偽りの教師たちが地にあるものを探し求めている活動と同じく、上にあるものを探す人たちも努力が必要だと言うことです。イエス様を信じたと言って、自然に上のものが与えられるのではなく、イエス様を信じたその時から続けて努めるべきです。

例えば、イエス様を信じ洗礼を受けて終わりではありません。それからがスタートです。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されると言うのですかと使徒パウロが話したように、イエスキリストが来られる日まで、私たちは、努力しながら進んで行くのです。

古い人を脱ぎ捨て新しい人を着なさいと言っています。コロサイ教会の信徒たちが昔の生活に戻ろうとする姿を見て話した言葉でしょう。私たちの中でも、古い自分に戻ろうとする人たちが少なくありません。過去のことを懐かしく思ってはいけません。互いに争い、憤り、そしり、恥ずべき言葉を言ったり、ウソをつくような姿を未だに見せていませんか。そのようなものは、イエスキリストを知る前に、神の怒りの下で生きていた古い姿です(7節)。私たちはそれらすべてを脱ぎ捨てるべきです。

古い人を脱ぎ捨てることは新しい人を着ることと別の意味ではありません。新しい人を着ると自然に古い人を脱ぎ捨てるようになります。ですから、上におられるイエスキリストを求めて、新しくなった自分を見つめなければ決して古い人を脱ぎ捨てることは出来ません。

新しい人にだけ現れる特徴があります。それは、差別がありません(11節)。なぜでしょうか。ぶどう園の労働者たちの例え話を考えて見てください。先にぶどう園に入って一日中働いた人たちと、遅く入って来て一時間しか働いてない人たちと同じ賃金が与えられます。早い時間から来て、頑張った人が腹を立てた理由は何でしょうか。彼は、隣の人たちと自分を比較しながら、ぶどう園の主人と約束した契約は思わず、一時間しか働いてないのに自分と同じ賃金をもらうことに怒っていたのです。

新しい人は上におられるイエスキリストを逃しません。人と比べません。人を差別しません。自分の生き方はどうでしょう。自分の口からはどんな言葉が出るのでしょう。自分は新しい人を着て古い人を脱ぎ捨て、上にあるものを求めているのでしょうか。自分に問いかけてみましょう。

キリストの中に留まりなさい 2020.10.08

コロサイ書1:24-2:5

クリスチャンが苦しみを喜びとしていられる理由は、栄光の望みであるキリストの故です。パウロは自分が受けている苦しみのことで悲しんだり、気落ちしたりしませんでした。なぜなら、教会のために受ける苦難だったからです。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪行を浴びせる時、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。(マタイ書5:11-12)」パウロはイエス様の御言葉の故に喜びました。自分が受けている苦しみはキリストの苦しみの欠けたところを満たすものであると言って、キリストの苦難にあずかることを喜んでいます。

また、彼は自分が教会に仕える者となったと言います。イエスキリストの福音を宣べ伝え、すべての人を諭し、教え、キリストにあって成熟したものとして立たせるのが自分の使命であることを明らかにしています。パウロは自分の使命と目的を明確に知っていました。それで、コロサイ教会の信徒たちにも同じ使命と目的を共に提示していくことを頼んでいます。

このように、私たちは、イエスキリストの栄光と望みにおいて、世の中でイエスキリストを宣べ伝える使命が与えられた者たちです。これを悟ることにより、私たちはイエスキリストの苦しみにあずかることで苦しみの中でも喜ぶことが出来るのです。

堅い信仰に立つ時に揺るがされません。イエスキリストの御姿に悟られたコロサイ教会の信徒たちにパウロは次のような重要なメッセージを伝えます。「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。(2:3)」つまり、異端の教えに揺らいでいるコロサイ教会の信徒たちに向かって、「あなたがたが悟ったイエスキリストの中にすべての知恵と知識が隠されていますよ」と強調します。

これは、イエスキリストの足りなさを主張して信徒たちを騙している異端の偽りの教えに揺るがされないように、一層キリストの中に留まるべきであり、堅い信仰に立つべきであることを宣布しています。

イエスキリストを正しく知らない人たちは、世の知識と哲学によって容易に信仰が揺らいでしまいます。パウロがコロサイ教会に向けて話した堅く立つ信仰を、私たちの中で成し遂げていき、揺らぎない信仰生活を歩んで行きましょう。

 

倒れないで乗り越えなさい 2020.10.01

Ⅰサムエル30:1-20 

ペリシテとイスラエルとの戦争から抜け出たダビデと部下たちは、ペリシテ人の地のツィクラグに戻ってきました。彼らがいないうちにアマレクの人たちが襲って来て、すべてを焼き払い、そこにいた女たちや子供たちをすべて連れ去っていました。ダビデとその兵たちは声をあげて泣き、泣く力もなくなるまで泣きました(4節)。

その時、部下たちは鬱憤をはらす対象を見つけようとします。このすべての責任がダビデにあると言って、彼らはダビデを石で打ち殺そうとします。ダビデが、ペリシテ人の地に皆を連れて来なかったらこんな悲劇は起こらなかったはずだと言いあったでしょう。状況がいい時は大丈夫ですが、このように状況が悪くなると、すでに1-2年過ぎた過去の話を蒸し返して非難する人たちの姿です。

この瞬間こそ、ダビデにとってすべてが崩れてしまいそうな危険な時でしょう。ペリシテに亡命しようとした自分の間違った選択の結果、自分の家族だけでなく部下たちの全家族まで死に追いやられてしまったからです。聖書は、ダビデが大変な苦境に立たされたと表現します。自分に従っていた部下たちが、自分を石打ちで殺そうと石を持ち上げたからです。

それにもかかわらず、ダビデは自分の神、主によって奮い立ちます(6節)。主がダビデに力と勇気を与えます。これがサウルと違う姿です。サウルは苦境にあった時に霊媒をする女を探しました。御答えがなかったとしても、すべきでないことはやってはいけません。それは、言い訳になりません。ダビデは苦境にあった時に主を探し求めます。自分の限界を認める謙遜と神様に対する信頼とで、極めて難しい最後の峠を乗り越えます。

ダビデのように、私たちは予測もしない苦境にあう時に、まず、神様と対面することを学ばなければいけません。神様を忘れた時に自分を支えてくれるものは何もありません。私たちが頼れるのは、ただ神様しかいません。普段の生活の中でも、私たちが探し求める方は神様であるべきです。このようなダビデに神様はお答えになります。「追え。必ず追いつくことが出来る。必ず救い出すことが出来る。」ダビデは直ちに600人の部下たちと出て行き、アマレクを追撃します。

ダビデの部隊は、神様の導きにより、あるアマレク人の奴隷に会います。この人は病気になったということで捨てられました。ダビデは、急いでアマレクを追撃すべき時でしたが、病んで捨てられた人に食べ物を与え、治療してあげました。これに感動したその奴隷は、アマレクの軍隊のところに案内します。彼の助けによってダビデと部下たちは、アマレクを急襲して奪われたすべてを取り戻します。

小さな親切を施したことにより、すべてを取り戻すことが出来ました(18-19)。施すのを惜しまないようにしましょう。小さい者一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人に神様は報いてくださることを忘れないように心がけましょう(マタイ書10:42、25:40)。

ダビデは29章で厳しいテストを神様の御助けにより、乗り越えます。30章でも、それ以上のテストにあわされたダビデは、神様にのみ頼りすがります。苦難に倒れずに立ち上がりました。それで、失われたことが一つもなく、すべてを取り戻すことが出来ました。神様が共におられる人であることが皆に明らかになりました。

一番大変な時に頼るのが信仰の対象だと言えるでしょう。私たちは苦難に倒れずに乗り越えるべきです。倒れる度に立ち上がらせてくださる方がおられるからです。神様と共に、倒れずに乗り越えなさい!今、自分に倒れずに乗り越えるべきことは何でしょうか。

サウルの没落 2020.09.29

Ⅰサムエル28:3-25 

28章からサウルの滅んでいく姿が出て来ます。ペリシテ人たちは再び攻め上って来ました。ペリシテはサウルが生きている間、続けて戦ってきた国です。そうであれば、戦争に備えて国防を強化し、軍事力を備えるのが当然でしたが、彼はそうではありませんでした。民たちにも気を配り不安要素を取り除くべきでした。しかし、サウルは内外ともに全く準備をしていませんでした。その結果、サウルはペリシテ人の陣営を見て恐れました。準備が出来てないと恐れるのは当然です。

その恐れのゆえに、彼は霊媒の女を探しました。しかし、サウルは霊媒や口寄せを国内から追い出していて、サウル自身もそれが罪であることが分かっていました。それにもかかわらず、今、彼はその人たちを自ら探しているのです。一番最悪な選択を選んだわけです。興味深いことに、神様の御心を伺うために霊媒の人に伺うということです。神様の御心を偶像にでも伺おうとするのはそれぐらい彼の心が弱くなっていて、頼る所がないことが分かります。

サウルは、何故このように霊媒の女を探しているのでしょうか。6節、15節で話しているとおり、神様はすでにサウルを捨てられ、夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお答えにならなかったからです。これがサウルを焦らせたのです。

現在のクリスチャンの中にもサウルのような人がかなり多いです。主を信じながらも、祈っても主の心がはっきり分からないと言って今日の運勢をみたり、昔の習慣にしたがって気軽に占いなどをする人たちがいます。気を付けなければなりません。習慣的に行ってきたものを信仰的に解釈してはいけないことが多いことに心がけましょう。

サウルはなぜ神様の御答えを聞けなかったでしょうか。まずは、彼が神様を捨てたからです。二つ目は、サウル自身が神様に対して恐れる心や慕い求める心がなかったわけです。その心に神様に対する期待や恐れがあったなら、ダビデを助けたと言う理由でノブの祭司アヒメレクと85人の祭司たちを殺せなかったはずです。

このように、ダビデを殺すという間違った判断により、神様に頼らず、国の働きもなおざりにしてきました。国防の政策も、民たちの生活を顧みることにも失敗でした。霊的な目が暗むとすべてのことが歪んでしまいます。妬みの執着から、敵たちに門を開けて置いた結果になりました。その時、イスラエルの大きな力であったダビデはペリシテ人の陣営にいました。この知らせを聞いたサウルと兵士たちは一層恐れたに違いありません。

現在の自分の霊的な姿を点検してみましょう。神様の基準から逸れてやるべき大事なことをないがしろにし、余計な所に気持ちが囚われていませんか?自分を顧みて、そのようなことがあるなら謙遜にそれを認め、自分のあるべき姿を取り戻しましょう。