逃亡者から救い出す者に 2020.9.17

Ⅰサムエル23:1-14

逃亡者から救い助ける人に変わっていくダビデの姿が見られます。ダビデと共にいた人たちも厳しい生活を送る人たちでした。周りから助けられた経験がない人たちだったかも知れません。当たり前のように社会に対する不平不満が多かったはずです。傷が多い人たちは、他人を助けることが苦手かも知れません。助けられていないから、助けることもしないという心理的な要素が彼らに働いたかも知れません。

また、逃げて来た人たちなので、恐れも多かったはずです。そのような面がどこから見られますか。ケイラがペリシテ人たちから攻撃されたという知らせを聞いて、ダビデは神様に伺って、救いに行きましょうと話しました。その時、「ユダにいてさえ恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか」と反対する部下の姿が出ています。部下たちの心を知ったダビデはもう一度主に伺います。それから、彼らは神様の御心に従ってケイラに行き、ペリシテ人を討って大きな打撃を与え、ケイラを救い出します。

ダビデと共にいた人たちは、もはや逃亡者ではありません。社会的には相変らず逃亡者の身分でしたが、助けが必要な人たちを見て見ぬふりをして、自分たちの命だけを考えて逃げ出す臆病者たちではありませんでした。彼らは、助ける人たちとしての第一歩を踏み出したわけです。それぞれ違うと思いますが、自分の心に問いかけてみましょう。恐いと言っていつまで隠れて過ごすつもりか?と。その恐れる心を打ち破って一歩踏み出す時に、自分も他人を助けられる人であることが確認できると思います。

病んでいると言って、自分の中に引きこもっていれば、いつまでも病弱者として生きるしかないかも知れません。ダビデは共にする人たちの言葉に動揺しませんでした。もちろん、無視もしませんでした。彼らの言葉に耳を傾け、もう一度主に伺いを立ててから、確かに神様の御心であることが分かったらすぐに、大胆に出て行きました。

私たちに向かう神様の御心は何でしょう。恐れながら生きることでしょうか。いつも敗北者として、逃亡者として生きることが神様の御心でしょうか。主は恐れるな。たじろぐな。私があなたと共にいる。私はすでに世に勝ったのですと話されました。主がすでに勝利したこの世の中で主の民として、力を出して生きることこそ、私たちに向かう神様の御心だと思います。

自分の中の声より、周りから聞こえる声より、ダビデは神様の御言葉にもっと敏感に反応しました。それで、ケイラ人たちが自分を裏切ることが分かりましたが、彼らにどんな仕返しも、対価も願わずにケイラから去ることが出来たと思います。

世を恐れる者ではなく、世に勝った主の福音を伝える救い助ける者として生きるように祈りましょう。

 

良い指導者  2020.9.16

Ⅰサムエル22:1-13

ダビデがアドラムのほら穴に避難したという話を聞いて、彼の兄弟たちや父の家の者皆が彼のところに集まってきました。また、困窮しているもの、負債のあるもの、不満のある者たちも皆集まって来て、その数が400人ほどになりました。ダビデは自分のもとに集まって来た人たちの指導者になりました。自分一人さえ守るのに精一杯なはずのダビデは、彼らを拒まず受け入れます。なぜでしょう。誰よりもダビデは彼らの心が分かっていたからでしょう。彼らの弱さを知って理解していたと思います。

しかし、人の心や事情を理解することと一緒に行動をすることとは別の問題です。その人たちと共にすることで、自分の命が危うくなる可能性が高いからです。しかし、ダビデは一人も見捨てませんでした。一人の魂を何よりも大事にする指導者になったと理解しても良いと思います。

サウルに殺された祭司アヒメレクの息子エブヤタルも、ダビデのところに身を避けて来ました。一層危険な状態になりましたが、エブヤタルを慰め、一緒に居ることを勧めます。自分の損得を考えず、傷ついて苦しんでいる人たちの心を慰めることが出来る人でした。

反面、サウルはどうでしょうか。サウルにとって忠実な部下で護衛兵の長であり、自分の婿であるダビデを殺そうとしています。なぜでしょう。妬みからです。この妬みが恐れを生み、ダビデを助ける人たちまで全部殺してしまいます。エポデを来ている祭司85人とその家族、家畜まですべて根こそぎに殺しました。妬みに駆られているサウルの目には祭司も見えません。自分にとって邪魔になると思うと、人、家畜、全てを殺してしまいます。

一人の人でも大事に思うダビデと、自分の目的に差支えがあればだれでも殺せるサウルです。ダビデは逃亡者であるにも関わらず指導者になりました。しかし、サウルは最高の権力者でありながらも、慈しみや情け深さもなくただ妬みに駆られ非情な行動にでます。

イエスの弟子として生きるということは、自分の利益にしたがって動くのではなく、まず、主の国と義を求め、動くことだと信じます。

 

苦難の中でも賛美 2020.9.15

Ⅰサムエル21:10-15

ダビデは自分を殺そうとするサウルを避けて逃亡生活をしていました。逃げ回っているうちにペリシテの地に入りました。ペリシテとはどんな国でしょうか。イスラエルと絶えず戦いのある国です。ダビデはサウルがペリシテの地までは追いかけて来ないと思ったようです。また、ペリシテ人たちも自分の顔を知らないと思ったようです。しかし、ペリシテの王の家来たちはダビデだと言うことがすぐ分かりました。「この人は、かの地の王ダビデではありませんか。」

ダビデはこの話を聞いて恐れを感じました。即座にに彼はまるで気が狂った人のように振る舞い始めました。ダビデの演技がいかにリアルだったかは、王が家来たちに怒りを発したことで分かります。「気がふれた者が不足しているとでもいうのか。この男を私の家にいれようとでもいうのか。」ダビデは、その地から逃げました。

皆さんは、気の狂ったようなふりをした経験がありますか。めったにないでしょう。僕は見たことがあります。中国の短期宣教に行ったときの話です。中国では外国人が伝道するのは禁止されています。しかし、だれかが通報したようで、中国の警察に見つかりました。中国の警察官たちが入って来るや否や、現地で働いていた宣教師は、まるでダビデのように気が狂ったような行動を取りました。宣教師が捕まえられると永遠に中国から追放されるので危機を逃れるために取った行動でした。韓国の宣教チームは、僕を含め全員捕まえられましたが、その宣教師一人は無事でした。

ダビデも宣教師もなぜ気が狂ったふりをしたでしょうか。恐れたからです。今までは神様が導いてくださったのでサウルの手から逃れることが出来ました。それは、神様の助けでした。今回もダビデはペリシテの地に行くのに、主が助けてくださると思ったはずです。中国の宣教師も宣教チームが来て主の働きをするので、守ってくださると信じたでしょう。今まで、数えきれない危機から救い出してくださったからです。しかし、ダビデも私たちの宣教チームも願った結果にはなりませんでした。

命からがら逃げて来たダビデは、気が狂ったふりをしたのが恥ずかしかったかも知れません。しかし、ダビデは自分の機転で危機から逃れたのではなく、神様の助けであったと告白しています。それが詩篇34篇です。

「主の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される。味わい、見つめよ。主が慈しみ深い方であることを。幸いなことよ、主に身を避ける人は。主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。若い獅子も乏しくなり、飢える。しかし、主を求める者は良いものに何一つかけることがない。(詩34:7-10)」

ダビデは生き残る道は、ただ主に頼り、主に身を避けることしかないと悟りました。神の人は、自分が描く「人生の絵」と違う現実に出会ったとしても、神様に信頼を置くべきです。ダビデは、このことで苦難の中で救い出される神の御手をもう一度経験することが出来ました(詩34:19)。

自分の考えや計画とは違っても、神様が導かれる道はいつも良いものです。この告白はダビデの人生を一層豊かなものにしたに違いません。

この世の中では恐れることがいつ起こってもおかしくありません。問題が波のように絶えず押しよってくるかもしれません。その時、自分の考えや計画ではなく、神様に委ねましょう。恐れに勝つ大きな信仰を持っていれば、気が狂った行動をしなくて済むでしょう。神様にすべてをゆだねる大きな信仰の所有者になるように祈りましょう。

 

 

誰がリーダーですか 2020.09.04

Ⅰサムエル17:28-40

前回、サウルが神様から退けられた後、イスラエルは真のリーダーが不在の状況であったと話しました。誰がリーダーでしょうか。王がリーダーでしょうか。戦いの上手な人がリーダーでしょうか。あるいは、声が大きく、主張する人がリーダーでしょうか。全部違います。真のリーダーとは、責任を取る人だと言えます。今、イスラエルの中では、真の責任を取ろうとする人は見えません。サウルも彼の兵士たちも責任を取ろうとしません。戦争の中で、だれ一人ゴリヤテの罵りを聞いても戦おうとしません。恐れて何もできず、しようともしません。

このような状況の中で、ダビデが出て戦おうとすると兄エリアブに怒られます。なぜエリアブが怒っているのか、この箇所を読む度に気になりました。そこで、ある聖書学者がこのように解説しました。「ゴリヤテと戦うことも出来ず、弟ダビデに劣ることも出来なくて見せた反応」だと。つまり、自分が責任を取ることが出来ないのに、他の人が責任を取ろうとすることに腹が立ったわけです。易しく言い換えれば、わたしができないから、君もしないでくれと言うことでしょう。

このような姿は、サウルにも見られます。サウルは一国の王として戦争の責任を取るべき人でした。しかし、恐れて何もできない状況の中で、幼いダビデが出て戦うというのです。それで、「あなたはあれと戦うことは出来ない。お前はまだ幼いし(3節)」と言いながら、無視します。しかし、ダビデは、「主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。(37節)」。ハレルヤ。

これこそ、責任を取る人の姿ではありませんか。責任を取るというのはすべてが出来るということではありません。私は力がなく能力も足りないが、現実的には不可能に見えるが、神様には出来ると信じ頼ることです。それから、行動に移すことでしょう。もし、恐ろしくて何もしないままでいるなら、神様も何の働きもなさいません。もちろんその行動が100%いい結果をもたらすとは限りません。願っていた結果が出ないかも知れません。しかし、神様が責任取って下さることを信じて行動に移すことが大事だと思います。

結局、この事件は、ダビデがイスラエルのリーダーになる重要なきっかけになります。ダビデはサウルにこのように話します。「あの男のために誰も気を落としてはなりません。(32)」誰が気を落としていましたか。イスラエルだと思いますが、サウル王に向けての言葉かも知れません。リーダーが気を落としてはいけないからです。ダビデは自分の羊を守るために命がけで戦ったと言っています。今、彼は命を掛けて戦っているのです。これが責任を取るリーダーの姿勢でしょう。

私たちの人生の問題に責任を取って下さる方は誰でしょうか。私たちのリーダーであるイエスキリストです。その方は、2千年前、私たちの罪の問題の解決のために十字架の上で死なれました。私たちを救ってくださいました。私たちの真のリーダーである方です。

皆さんは、現在、イエスキリストを真のリーダーとして認めていますか。また、イエス様に従う弟子として、自分が責任を取るべきことは何でしょうか。

主の霊が臨んだ人  2020.09.01

Ⅰサムエル16:1-23

15章で、神様がサウルを王位から退けたことでサムエルは悲しんでいました。サムエルにとって、サウルはイスラエルの王として初めて油注がれた人でした。それで、期待感もあったでしょう。しかし、その期待が崩れた時には、人間的な心の痛みもあったでしょう。しかし、神様はそのようなサムエルに、王位から退けられたサウルのことでいつまで悲しんでいるのかと咎められました。私たちもある人やある物事に対して、人間的な悔やみがある時があります。未練が残る時もあります。しかし、神様の御心でないことに、いつまでも囚われていてはいけません。神様の計画を信頼すべきです。過ぎ去ったことにいつまでも未練を持つことを神様は喜ばれません。新しいことを行われる神様に信頼を置き、その準備をして行く必要があります。神様は、すでに新しい王を選ばれました。

エッサイの子たちを見て王になるのに相応しいと思ったサムエルに、神様は人のうわべを見てはならないとおっしゃいました。神様はうわべではなく、心を見る方であるからです。結局、その宴会に参加した7人の兄弟ではない幼かったダビデが選ばれました。神様の選択と人の選択は違います。人は見えるものを信頼する傾向があります。サムエルさえもそうでした。彼は、すでにサウルという失敗の経験があります。私たちは目で見て自分勝手に考えた後で選んだ選択に、後悔した経験が多くあるでしょう。私たちはいつも自分の目や知恵を信じず、神様に祈って決めなければなりません。

選ばれたダビデには神の霊が激しく下りました。神の霊が離れたサウルにはわざわいの霊が彼をおびえさせました。とても対照的なこの二人が、一つの空間にいるようになりました。わざわいの霊がサウルに臨むたびに、ダビデは竪琴を手にとって弾きました。すると、サウルは元気を回復して良くなり、わざわいの霊は彼を離れ去りました。わざわいの霊が離れ去ったというのは、神の霊が臨んだという意味で解釈しています。神の霊に満たされている人は、おびえていて息苦しい人生を過ごしている人たちに、少しでも息ができて落ち着ける平安をプレゼントすることが出来ます。主の霊が臨まない所には苦しみがあるだけです。自分が行く所どころに主の霊が臨まれるように祈りましょう。それで、人々の心に平安が訪れ、回復があるように祈りましょう。

9月が始まりました。一か月も、主の霊が皆さんに臨まれ、主の平安と恵みが共にありますように。