まさか私ではないでしょう。 2020.06.20

マルコ書14章12節~21節

過ぎ越しの祭りがすでに始まっていたので、エルサレムには全国から上って来た多くの人たちでいっぱいになっていました。そこで、イエス様を含め13人が集まれる大きな場所が残っているはずがありません。しかし、イエス様の御言葉の通り、過ぎ越しの食事ができる広い場所が用意されていました。イエス様はいつも、私たちの必要を用意しておられるお方です。今日も皆さんの必要を満たして下さるでしょう。

夕方になって、共に食事をしているとき、イエス様は言われました。「あなたがたのうちの一人が、私をうらぎります。」楽しくご飯を食べている中、冷水を掛けられたような静けさが横切り、弟子たちはびっくりしたはずです。その沈黙も瞬く間、ある弟子たちから、次々と「まさか、私ではないでしょう。」と言い始めました。イスカリオテユダ・ユダまでも。

「まさか、私ではないでしょう」と言う言葉の意味は何でしょうか。私は他の弟子たちとは違うでしょう。他の弟子たちがイエス様を裏切っても私は裏切りません。

これが、私たちの心ではないかと思います。私は違う。私は大丈夫。私は正直なものだ。わたしをあの人たちと比べるな。

イスカリオテ・ユダではないなら大丈夫だと思うかもしれませんが、結局、みんながイエス様を捨てて逃げてしまいました。私たち、自分だって違うことはないと思います。

私たちが主に言うべき言葉は、まさか私ではないでしょうではなく、私がその人ですと言う告白になるべきではないでしょうか。

三つの種類の人 2020.06.19

聖書箇所:マルコ書14章1節~11節

三つの種類の人たちが登場します。

一つ、純粋な心で仕える人。このような人は心に感動があれば、素直に従う人です。何か頭を使って意図しません。イエス様に香油を注ぐことで、褒められることを願いません。それで、イエス様は、一層、彼女のことを褒め、また、恵みを与えられているのではないかと思います。

二つ、純粋な心で行う人のことに腹が立つ人。 このような人は、自分ができないのに、人がやるのを見ると焼きもちを焼きます。それで、香油を売り、貧しい人たちに施しをした方が良かったではないかと言います。なるほど。妥当な話に思われることを言いますが、実は、自分ができないから、あなたもやらないで…と言う心でしょう。純粋な心をそのまま受け入れれば良いのに、それが出来ないねじれた心が問題です。感動を受けて一緒にやれば良いのに…。

三つ、イスカリオテユダのように弟子と言う名があって、人たちの前では、正しく偉そうな顔をするのですが、裏心では裏切り、悪口をふらす人たちです。イエス様と共に働くように見えますが、人をだます人です。

しかし、この三つの種類の人たちの姿が、すべて私たち自分の中にあると言うのを認めざるを得ません。人のことを指摘するのではなく、自分自身を顧みましょう。

雨の音が涼しく感じられる良い朝です。今日も勝利しましょう。

詩4編の黙想 2020.04.01

詩篇4:1-8の言葉を分かち合うことで、4月を祝福します。

ダビデは、主がご自分の聖徒たちを特別に扱われると言いながら、自分がそのような人の一人であると、告白しています。なぜならば、自分が主を呼ぶとき、主は聞いてくださると確信を持って告白しているからです(4節)。このような信仰の確信が皆さんにはありますか。ダビデのように告白できるように祈ります。

ダビデは呼ぶとき、聞いてくださる主によって、平安の内に身を横たえ、すぐ眠りつけるとまた告白しています。安らかに住まわせてくださる主を信頼しています。人は、悩みがあると、寝れなかったと言うでしょう。でも、すべてを主に委ねる人は、平安の中で眠れると信じます。悩むことで、思い煩うことで、解決できることはありません。主に任せて祈りましょう。主は私たちの砦、避け所だからです。

 なので、ダビデは穀物と新しいブドウ酒が豊かにある時の喜びにまさる、主が下さる喜びを享受しているのです(7節)。穀物と新しいブドウ酒は、農夫が自分の力で、努力して得た物で、結果物です。努力の報いです。その報いにも勝るのが、主が下さる喜びです。

皆さんは、どんな時、いつ、喜ばれますか。それに勝、主が下さる喜びが経験できますように祈ります。

新型コロナウイルスによって、全世界が恐れている最近です。でも、ダビデが信じて、信頼した主は、私たちの主にもなります。なので、ダビデが味わって喜び、平安を私たちも経験できると信じます。この信仰を持って勝利する4月になりますように、祝福します。