Ⅰサムエル14:36-52

サウルの性格はかなり衝動的であり、自己中心的であることが伺えます。民たちが肉を食べて気力を回復したのを見たからなのか、夜、ペリシテ人を追って行こうとします。戦争について神様に聞く姿はありません。いつも、自分の頭で考え、判断し、それを主張します。また、祭司の言葉にしたがって神様に聞きましたが、答えがなかったのを見て、だれの罪のせいなのか確かめるように命令します。それで、たとえ自分の息子ヨナタンであっても必ず死ななければならないと言います。深く考えもしないで、衝動的に口に出してしまいます。罪があれば、その人を見つけ出して、神様にどうすれば良いか聞いてみるのが正しいはずですが、今回も自分で決めてしまいます。結果は自分の息子ヨナタンでした。しかし、民たちによってヨナタンを殺すことは出来ませんでした。ヨナタンが死ななくて良かったと思ったはずですが、王としての言葉を守ることが出来なくなりました。

私たちはいつも神様の御言葉に従順となって生きなければなりません。自分の考えと計画ではなく、神様に祈ることによって導きをいただくべきでしょう。それが、信仰です。自分の考えで正しいと思うままに行動するのは、神様に仕えることではありません。士師時代の特徴は何でしょうか。それぞれ自分の目に良いと映ることを行っていたのです。その中に神様はおられません。

今回もヨナタンとサウルは、また違う姿を見せています。くじによりヨナタンに罪があると導かれました。ヨナタンはサウルの誓いを聞きませんでした。また、戦争で勝利することができた大きな功績は彼にありました。しかし、いかなる言い訳も言いません。サウルの命令は間違っていましたが、それに不従順であった自分の罪を認め、死ぬことも恐れません。サウルがサムエルから叱責された時、ぐずぐず弁明した姿とずいぶん違います。結局民たちの弁護でヨナタンは救われます。

ここで、納得のいかない点があります。47節でサウルが「どこに行っても彼らを敗走させた。」と書いてありますが、神様の主権を認めないで、自分の考えで生きていても、ものごとはうまくいくのかと言う質問です。それなら、何故、人は神様に従順となって生きるのでしょうか。それは、神様なしでもうまく行くという間違った経験から来るのです。このような経験が繰り返されると、ついには自分の目に良いと映ることを行いながら生きる人生になります。神様と関係ない人生になります。52節、勇気のあるもの、力のあるものをみな、召しかかえたということは、戦争において神様を頼らなかったことを端的に見せています。

今、自分は自分の考えと判断で生きているのか。主の御心に従って生きているのか。