Ⅰサムエル30:1-20
ペリシテとイスラエルとの戦争から抜け出たダビデと部下たちは、ペリシテ人の地のツィクラグに戻ってきました。彼らがいないうちにアマレクの人たちが襲って来て、すべてを焼き払い、そこにいた女たちや子供たちをすべて連れ去っていました。ダビデとその兵たちは声をあげて泣き、泣く力もなくなるまで泣きました(4節)。
その時、部下たちは鬱憤をはらす対象を見つけようとします。このすべての責任がダビデにあると言って、彼らはダビデを石で打ち殺そうとします。ダビデが、ペリシテ人の地に皆を連れて来なかったらこんな悲劇は起こらなかったはずだと言いあったでしょう。状況がいい時は大丈夫ですが、このように状況が悪くなると、すでに1-2年過ぎた過去の話を蒸し返して非難する人たちの姿です。
この瞬間こそ、ダビデにとってすべてが崩れてしまいそうな危険な時でしょう。ペリシテに亡命しようとした自分の間違った選択の結果、自分の家族だけでなく部下たちの全家族まで死に追いやられてしまったからです。聖書は、ダビデが大変な苦境に立たされたと表現します。自分に従っていた部下たちが、自分を石打ちで殺そうと石を持ち上げたからです。
それにもかかわらず、ダビデは自分の神、主によって奮い立ちます(6節)。主がダビデに力と勇気を与えます。これがサウルと違う姿です。サウルは苦境にあった時に霊媒をする女を探しました。御答えがなかったとしても、すべきでないことはやってはいけません。それは、言い訳になりません。ダビデは苦境にあった時に主を探し求めます。自分の限界を認める謙遜と神様に対する信頼とで、極めて難しい最後の峠を乗り越えます。
ダビデのように、私たちは予測もしない苦境にあう時に、まず、神様と対面することを学ばなければいけません。神様を忘れた時に自分を支えてくれるものは何もありません。私たちが頼れるのは、ただ神様しかいません。普段の生活の中でも、私たちが探し求める方は神様であるべきです。このようなダビデに神様はお答えになります。「追え。必ず追いつくことが出来る。必ず救い出すことが出来る。」ダビデは直ちに600人の部下たちと出て行き、アマレクを追撃します。
ダビデの部隊は、神様の導きにより、あるアマレク人の奴隷に会います。この人は病気になったということで捨てられました。ダビデは、急いでアマレクを追撃すべき時でしたが、病んで捨てられた人に食べ物を与え、治療してあげました。これに感動したその奴隷は、アマレクの軍隊のところに案内します。彼の助けによってダビデと部下たちは、アマレクを急襲して奪われたすべてを取り戻します。
小さな親切を施したことにより、すべてを取り戻すことが出来ました(18-19)。施すのを惜しまないようにしましょう。小さい者一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人に神様は報いてくださることを忘れないように心がけましょう(マタイ書10:42、25:40)。
ダビデは29章で厳しいテストを神様の御助けにより、乗り越えます。30章でも、それ以上のテストにあわされたダビデは、神様にのみ頼りすがります。苦難に倒れずに立ち上がりました。それで、失われたことが一つもなく、すべてを取り戻すことが出来ました。神様が共におられる人であることが皆に明らかになりました。
一番大変な時に頼るのが信仰の対象だと言えるでしょう。私たちは苦難に倒れずに乗り越えるべきです。倒れる度に立ち上がらせてくださる方がおられるからです。神様と共に、倒れずに乗り越えなさい!今、自分に倒れずに乗り越えるべきことは何でしょうか。