Ⅰサムエル21:10-15
ダビデは自分を殺そうとするサウルを避けて逃亡生活をしていました。逃げ回っているうちにペリシテの地に入りました。ペリシテとはどんな国でしょうか。イスラエルと絶えず戦いのある国です。ダビデはサウルがペリシテの地までは追いかけて来ないと思ったようです。また、ペリシテ人たちも自分の顔を知らないと思ったようです。しかし、ペリシテの王の家来たちはダビデだと言うことがすぐ分かりました。「この人は、かの地の王ダビデではありませんか。」
ダビデはこの話を聞いて恐れを感じました。即座にに彼はまるで気が狂った人のように振る舞い始めました。ダビデの演技がいかにリアルだったかは、王が家来たちに怒りを発したことで分かります。「気がふれた者が不足しているとでもいうのか。この男を私の家にいれようとでもいうのか。」ダビデは、その地から逃げました。
皆さんは、気の狂ったようなふりをした経験がありますか。めったにないでしょう。僕は見たことがあります。中国の短期宣教に行ったときの話です。中国では外国人が伝道するのは禁止されています。しかし、だれかが通報したようで、中国の警察に見つかりました。中国の警察官たちが入って来るや否や、現地で働いていた宣教師は、まるでダビデのように気が狂ったような行動を取りました。宣教師が捕まえられると永遠に中国から追放されるので危機を逃れるために取った行動でした。韓国の宣教チームは、僕を含め全員捕まえられましたが、その宣教師一人は無事でした。
ダビデも宣教師もなぜ気が狂ったふりをしたでしょうか。恐れたからです。今までは神様が導いてくださったのでサウルの手から逃れることが出来ました。それは、神様の助けでした。今回もダビデはペリシテの地に行くのに、主が助けてくださると思ったはずです。中国の宣教師も宣教チームが来て主の働きをするので、守ってくださると信じたでしょう。今まで、数えきれない危機から救い出してくださったからです。しかし、ダビデも私たちの宣教チームも願った結果にはなりませんでした。
命からがら逃げて来たダビデは、気が狂ったふりをしたのが恥ずかしかったかも知れません。しかし、ダビデは自分の機転で危機から逃れたのではなく、神様の助けであったと告白しています。それが詩篇34篇です。
「主の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される。味わい、見つめよ。主が慈しみ深い方であることを。幸いなことよ、主に身を避ける人は。主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。若い獅子も乏しくなり、飢える。しかし、主を求める者は良いものに何一つかけることがない。(詩34:7-10)」
ダビデは生き残る道は、ただ主に頼り、主に身を避けることしかないと悟りました。神の人は、自分が描く「人生の絵」と違う現実に出会ったとしても、神様に信頼を置くべきです。ダビデは、このことで苦難の中で救い出される神の御手をもう一度経験することが出来ました(詩34:19)。
自分の考えや計画とは違っても、神様が導かれる道はいつも良いものです。この告白はダビデの人生を一層豊かなものにしたに違いません。
この世の中では恐れることがいつ起こってもおかしくありません。問題が波のように絶えず押しよってくるかもしれません。その時、自分の考えや計画ではなく、神様に委ねましょう。恐れに勝つ大きな信仰を持っていれば、気が狂った行動をしなくて済むでしょう。神様にすべてをゆだねる大きな信仰の所有者になるように祈りましょう。