ゼカリヤ書14章:1-11

主がゼカリヤに見せられた幻とメッセージは、宮の再建だけではなく、メシヤが来られること、更に、神の国の完成を私たちに望ませます。それが、最後の14章で表されています。

14章の御言葉は歴史の中で起こった出来事ではなく、イエスキリストが来られる将来のことを見せています。これは、霊的イスラエルである教会のイメージだと言えます。終末の教会は、異邦の国々に攻められるようになります。これは、13章7-9に書いてあるように神様の裁きから残った3分の1の中で、また、その半分が連れ去られる惨状を呈しています。

しかし、この患難は長続きしないでしょう。主が共におられるからです。神様が異邦の国々を裁かれます。

主が来られる時、救われた主の民は主と共におり、暗闇の中で光を放つようになります。すべての世は光なる主を見るでしょう。エルサレムからいのちの水が流れ出るイメージは、いのちの豊かさを見せていて、そのすべての働きを通して神様が栄光を受け取るようになるでしょう。地のすべては平らになり、エルサレムは高くそびえ、すべての地の中心になるでしょう。もはやエルサレムが聖絶されることはなく、エルサレム(霊的な教会)は安らかに住むようになります。このすべてが神殿の再建を通して、預言者たちを通して、神様が私たちに見せてくださるビジョンです。このすべては、生活の慌ただしさや所有の豊かさによるものではなく、神の御言葉とその成就であるイエスキリストの来られることによって与えられる祝福です。

イエス様が弟子たちに向かって、ご自分の十字架の働きを通して与えられる救いと教会について話されました。その教会にご自分を与えられるのが一番大きな祝福であることを約束なさりました。したがって、キリストのみが私たちの希望になるでしょう。キリストのみが教会の岩となり、すべてです。キリストのみが真実の宮となり、その宮なるキリストが来られる時こそ、すべての安らぎと喜びが与えられるからです。

教会は、建物や駐車場などの人の目に望ましい姿に希望を置くのではありません。ただ、キリストご自身とその方の御働きに自分をあずけることにより、私たちは真の安らぎと喜びを得られます。神殿は神様の臨在を意味するので、民たちにとって宮の再建は大切でした。キリストの来られることは、このすべての究極的な祝福を私たちに与えるでしょう。それで、わたしたちはその御言葉を福音、良い知らせとして受け取るのです。