1サムエル25:36-44

アビガイルがダビデに会ってから帰って来た時に、夫ナバルは何をしていましたか。まるで、王の宴会のような大きな宴会を開いて、上機嫌でひどく酒に酔っていました。問題を起こした本人は、どんなことが起こったかさえ知らずに、自分の満足におぼれています。

この姿を見たアビガイルの心はどうだったでしょう。怒りが出たり、話す言葉を失ったりしたでしょう。酒に酔っ払っている人に腹を立てても無用だということが分かったアビガイルは、その時は何も話しません。

神様が人間を見る時にもこんなものではないかと思いました。罪におぼれて生きている人間をご覧になりながら何も言われないことは、話しても聞かないことがお分かりだからではないでしょうか。「愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦と一緒についてもその愚かさは彼から離れない。(箴言27:22)」モーセ時代、ファラオに10回警告しても悟れませんでした。それにもかかわらず、続けて話されたのはファラオのためではなくイスラエル民を救われるためでした。

朝になって、酔いから覚めたナバルにアビガイルは昨日の出来事を話します。すると、ナバルは気を失って石のようになりました。心が気落ちすると体が反応して硬くなります。人間の心と体は繋がっています。箴言17:22「喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨を涸らす。」ナバルの打ちひしがれた心がナバルを死なせます。ナバルは自分の所有を守ることばかりに関心を持っていましたが、自分の心を守ることは出来ませんでした。何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。命の泉はこれから湧くと主は言われましたが、落胆して恐れることにより、彼は死にます。

現在、自分が守ろうとするものは何ですか。目に見えるもののみに気を使うなら、本当に大事なものを失うかもしれません。本当に大事なものは私たちの目に見えないからです。どんな状況の中でも心を見守る私たちになりましょう。

ナバルが死んだというニュースを聞いたダビデは、ナバルから受けた恥辱に対して主が報いてくださったことを賛美しました。また、自ら復讐することを引き留めてくださったことをほめたたえました。

辛抱することには二つの種類があると思います。心の中で、復讐の刃物を研ぎながら、チャンスを狙って辛抱するタイプがあり、もう一つは、主が代わりに報いてくださることを信じて辛抱するタイプがあります。主が復讐して下さるだろうということを、聖書では、柔和と言います。人の前では、優しいのに後ろでは刃物を研いでいる人を柔和とは言いません。真の柔和とは、主が復讐して下さる。復讐は自分の領域ではないと主を認めることです。主が報いてくださるだろうという言葉より、恐い言葉があるでしょうか。主に委ねることです。しかし、残念ながら、殆どの人は自ら復讐を計画し実行するため、主の御働きを経験することが出来ないものです。

ダビデが偉大な理由は、ストップをかけるのが上手だったからではないでしょうか。性格が鈍感で辛抱するのではありません。主によって長く忍耐し、ストップすることが出来たからです。神殿建築のことも、十分能力があったダビデでしたが、自分にはその権利がないと言いながら、止めました。能力があるのと権利があるのとは別の話です。ダビデは能力と権利を区別することが出来る人でした。ドライブが上手で速度を上げることは自由ですが、どんな所でも速度を上げる権利はありません。私たちは覚えるべきです。私たちに権利を与えて下さる方がおられることを・・・。