マルコ書15章16-32
イエス様がゴルゴタに向かって十字架を背負って行かれる時、クレネ人シモンと言う人がちょうどその時、通りかかっていました。クレネとは、現在北アフリカのリビアにある都市でした。ディアスポラのユダヤ人だった彼は、過ぎ越し祭りのためにエルサレムに来たのは確かだと思います。しかし、急にローマ兵士たちによってイエス様の十字架を背負うようになりました。本当に戸惑ってしまったはずです。自分が願ってもいないひどいことにあわされたシモンの心境はどうだったでしょう。
彼の心はとても悩まされたと思います。ある面では、思わず襲って来た試練だとも思ったでしょう。十字架は、かなり重かったに違いありませんが、何よりも、罪人の十字架を背負っていくのが気に入らなかったと思います。自分がなぜ、こんなことにまきこまれてしまったのかを考えたでしょう。もう少し早く過ぎ去っていたなら、もう少し遅く来たなら、なんとかして目立たなかったなら、こんな目に会わされなかったのにと自分を責めたのではないでしょうか。
しかし、結局、このことは、恵みにつながったと信じます。聖書は彼の名前と子供たちの名前を記録しています。アレクサンドロとルフォスの父であるクレネ人シモンと確かに書いてあります。ルフォスと言う名前は、使徒パウロがローマ書16章で同僚たちに安否を尋ねる時に登場します。「主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく(ローマ16:13)。」彼の母を自分の母と言っています。つまり、ルフォスと使徒パウロは仲の良い友人だったのが分かります。ローマにいるキリスト者たちの間でも名が知られていた人だと言う意味でしょう。
私たちは、従順と言うのは自ら進んでするものであり、その時こそ恵みがあるものだと思います。もちろん、正しいことだと思います。しかし、クレネ人シモンのことを考えて見ると、時には願わないことだとしても、従順になる時、恵みがあると思います。どんなことが与えられても喜びを持って荷いましょう。願ったことでも、願ってなかったことでも自分に与えられたことについて最善を尽くしましょう。その時に一層、大きな恵みが注がれるのではないでしょうか。イエス様も願わなかった十字架を背負われました。それが、父の御心だったからです。それにも関わらず、イエス様は黙々と十字架を背負われました。従順に行いました。その従順によってすべての名にまさる名が与えられました。