マルコ書16章1-8

イエス様の体に香料を塗るため、墓に向かっている三人の女性たちは、墓の入口を塞いでいる大きな石をどうすべきか悩んでいました。この悩みは現実的なことだと思います。なぜなら、イエス様が死なれ、自分たちには力がなかったからです。この大きな石は、私たちが実際に持っている現実の悩みであり、解決すべき問題でしょう。しかし、問題は、イエス様が死なれたと思っているので、そこからこの石を転がすのが問題になっているのです。もし、イエス様が墓の中におられないことが分かっていたなら、それは、問題にならなかったでしょう。言い換えれば、復活なさったイエス様に対する確信がないため、大きな石が問題になったわけです。この三人の女性の心配の元は何でしょうか。復活なさると言う御言葉が信じられなかったことです。イエス様が十字架で死なれる前に復活について何度も語られましたが、その御言葉を信じなかったと言うことです。

私たちの信仰の問題は何でしょうか。御言葉を信じないことであり、御言葉を覚えていないことです。それで、イエス様の復活も信じられませんでした。人は目で見た通りに信じるため、不信仰が生じます。目で見て信じるのではなく、宣布された御言葉を信じる信仰が私たちの信仰にならなければなりません。

誰が、転がしてくれるでしょうか。

彼らがお墓に着いた時は、すでにその心配は無用になっていました。復活なさったイエス様の前では、いくら大きな石であったとしても何の問題にもなりません。すでに、主が転がしておられたからです。復活の信仰を持っている者たちには、現実の悩み、心配は何の役にも立ちません。

また、石が転がされてあったと言うことは、イエス様が体をもって復活なさったことの証拠となります。霊だけでよみがえられたなら、石で塞がれてあってもなくても関係なかったのですが、体をもって復活なさったので、石を転がして歩いて出て行かれたことを表します。霊でも体でも復活なさったことを信じる時、わたしたちの人生の行き先を塞いでいた石はすでに転がされていて、私たちは約束通りにイエス様に会えるようになると信じます(7節)。