御言葉の前でストップをかけよう  2020.9.24

1サムエル25:36-44

アビガイルがダビデに会ってから帰って来た時に、夫ナバルは何をしていましたか。まるで、王の宴会のような大きな宴会を開いて、上機嫌でひどく酒に酔っていました。問題を起こした本人は、どんなことが起こったかさえ知らずに、自分の満足におぼれています。

この姿を見たアビガイルの心はどうだったでしょう。怒りが出たり、話す言葉を失ったりしたでしょう。酒に酔っ払っている人に腹を立てても無用だということが分かったアビガイルは、その時は何も話しません。

神様が人間を見る時にもこんなものではないかと思いました。罪におぼれて生きている人間をご覧になりながら何も言われないことは、話しても聞かないことがお分かりだからではないでしょうか。「愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦と一緒についてもその愚かさは彼から離れない。(箴言27:22)」モーセ時代、ファラオに10回警告しても悟れませんでした。それにもかかわらず、続けて話されたのはファラオのためではなくイスラエル民を救われるためでした。

朝になって、酔いから覚めたナバルにアビガイルは昨日の出来事を話します。すると、ナバルは気を失って石のようになりました。心が気落ちすると体が反応して硬くなります。人間の心と体は繋がっています。箴言17:22「喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨を涸らす。」ナバルの打ちひしがれた心がナバルを死なせます。ナバルは自分の所有を守ることばかりに関心を持っていましたが、自分の心を守ることは出来ませんでした。何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。命の泉はこれから湧くと主は言われましたが、落胆して恐れることにより、彼は死にます。

現在、自分が守ろうとするものは何ですか。目に見えるもののみに気を使うなら、本当に大事なものを失うかもしれません。本当に大事なものは私たちの目に見えないからです。どんな状況の中でも心を見守る私たちになりましょう。

ナバルが死んだというニュースを聞いたダビデは、ナバルから受けた恥辱に対して主が報いてくださったことを賛美しました。また、自ら復讐することを引き留めてくださったことをほめたたえました。

辛抱することには二つの種類があると思います。心の中で、復讐の刃物を研ぎながら、チャンスを狙って辛抱するタイプがあり、もう一つは、主が代わりに報いてくださることを信じて辛抱するタイプがあります。主が復讐して下さるだろうということを、聖書では、柔和と言います。人の前では、優しいのに後ろでは刃物を研いでいる人を柔和とは言いません。真の柔和とは、主が復讐して下さる。復讐は自分の領域ではないと主を認めることです。主が報いてくださるだろうという言葉より、恐い言葉があるでしょうか。主に委ねることです。しかし、残念ながら、殆どの人は自ら復讐を計画し実行するため、主の御働きを経験することが出来ないものです。

ダビデが偉大な理由は、ストップをかけるのが上手だったからではないでしょうか。性格が鈍感で辛抱するのではありません。主によって長く忍耐し、ストップすることが出来たからです。神殿建築のことも、十分能力があったダビデでしたが、自分にはその権利がないと言いながら、止めました。能力があるのと権利があるのとは別の話です。ダビデは能力と権利を区別することが出来る人でした。ドライブが上手で速度を上げることは自由ですが、どんな所でも速度を上げる権利はありません。私たちは覚えるべきです。私たちに権利を与えて下さる方がおられることを・・・。

 

アビガイルの知恵  2020.9.23

Ⅰサムエル25:18-35 

アビガイルの知恵が目立ちます。しもべの話を聞いて、急いで食べ物を用意し、ダビデに向かって出て行きます。そうでないと、ナバルの家のすべての人たちが殺されるかもしれないからです。アビガイルが急いだのは命が掛かっていたからです。ナバルとは相談せずに、自分が出来る最善のものを用意します。もし、アビガイルがナバルを説得していたら遅かったかもしれません。

順番を踏むのは大事ですが、それを省略して急ぐべき時もあります。お互に相談して処理する時もありますが、まず、処理して後で報告すべき時もあります。しかし、相談せずに独断で行ったと言って文句を言う人たちもいるでしょう。しかし、状況によるとをお互に理解すべきだと思います。

韓国はパリパリ(早く早く)文化と言われます。それで、ものごとの処理は早いが、その後いろいろな問題が起こることもあります。反面、日本はマニュアル社会だと言われます。マニュアルの通り動くので正確ですが、ものごとの処理が遅くなる場合もあります。

私たちが福音を伝える時に遅れてしまうのはなぜでしょうか。急がなくても良いと思うからでしょう。魂を救うのに急ぐ必要性を感じられないのです。魂を救うこと、福音を伝えることに最善を尽くすべきです。アビガイルは急ぐのですが、十分用意して出て行ったように、福音を伝えることも惜しまず、時には浪費と思うくらい注ぎ入れる必要があります。それで、いのちが生かされるからです。

アビガイルは、ダビデに知恵をもって話します。彼女は憤っているダビデに、神様があなたを指導者に立たせられるので、理由もなく血を流したり、自ら復讐したりして、あとで後悔することはしないでくださいと願います。アビガイルの話を聞いたダビデは、心に平安を取り戻し、神様が殺人を止めてくださったと告白しています。また、アビガイルの言葉通りにすると約束します。自分の軽率な行動と過ちを認めたのです。プライドが高い人なら、易しいことではなかったでしょう。しかし、ダビデは、彼女を通して神様が自分を止めてくださったことが分かりました。それで、人ではなく、神様の前で、自分の過ちを認めたのです。

このように、毎瞬間、私たちは神様の御声に耳を傾けるべきです。勝利は神様がくださるものです。人と戦わずに勝利する方法を教えて下さる主です。手に血を付けずに勝つ秘訣は、主の方法に従うことです。そうするならば、アビガイルの話のように、敵たちは主が石投げのくぼみに入れて投げつけられるのです。

自分の気が短いことで、処理するまで待てないミスを犯さないように注意を払うべきです。主が働いてくださるまで待つ信仰になるように祈りましょう。

 

抱くほど成長する  2020.9.22

Ⅰサムエル25:1-17

預言者サムエルが死にました。全イスラエルは悼み悲しみました。サムエルがイスラエルの民たちに尊敬された人であったことが分かります。なぜならば、サムエルはいつも心にイスラエルを抱いていたからです。国を抱き、祈ったサムエルの死だったので、全イスラエルが悼み悲しんだのです。人の価値は死んだ後に分かるものだと言われます。生きている間に、人たちにどんな影響を及ぼしたのかが分かります。

反面、ナバルは非常にお金持ちでしたが、影響力は全然ありませんでした。しもべたちさえも「ご主人はよこしまな方ですから、だれも話しかけることが出来ません。」と言うほどでした。つまり、ナバルは周りの人たちの話を聞かない、人を抱けない人でした。また、多く持っていますが、分け合うことも知りません。羊の毛を刈り取る宴が開かれる、食べ物が豊かな時期です。600人を引き連れるダビデも彼に食べ物を頼みます。しかし、ナバルはダビデの頼みを拒みます。

聖書は、彼を愚か者だと言っています。ナバルと言う名前が愚か、バカと言う意味です。サウルのように人を抱くことが出来ない人が愚かな人です。そのような人の周りには人が集まりません。

逃げる生活のダビデと部下たちには食糧がいつも足りなかったはずです。その時にナバルが羊の毛を刈り取ることを聞きました。以前、ダビデと彼の部下たちはナバルの牧者たちと羊の群れを守ってあげました。ダビデと部下たちには力がありましたが、ナバルの羊や牛を奪いませんでした。彼らは誠実に行いました。しかし、そのような彼らのやさしさは完全に無視されました。

ナバルがダビデを知らないはずがありません。彼が「この頃は、主人のところから脱走する家来が多くなっている(10節)」と言うのは、サウルから逃げて来たダビデのことを蔑む態度でした。

それで、ダビデは激怒してしまいます。ここで、ダビデの残念な姿が見られます。彼が、もう少し忍耐したら良かったのに。彼は自分の命を狙うサウルさえも赦して善を施した人です。しかし、ある人が自分を無視したという理由で殺人をしようとしています。自分の所に身を避けている空腹の600人のことを考えると怒りが出たことでしょう。この姿から、ダビデだけでなく人間がいかに弱い存在であるかが分かります。

私たちも信仰生活を頑張ってやっていましたが、苦難が訪れたり、他人を助けたことで誤解されたりすることがあります。自分の善行が良い結果をもたらさなかった時に、怒りが出たり、鬱憤が出たりします。すると、行動にミスが生じます。ダビデが部下たちを連れて上っていたのは軽率な行動でした。もう少し待ったならば、主が一層彼の必要なものを満たして下さったでしょう。なぜなら、このすべての状況は、神様が彼を王に立たせるための信仰訓練の過程だったからです。伝道者7:8「事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。」

心に抱くほど、私たちは成長すると信じます。自分が願った結果を得ることが出来なかったと言って、軽率にことを決めた経験はありませんか。軽率に恨み、軽率にがっかりしたことはありませんか。聖徒は原因と結果によって生きるものではありません。神様の恵みと計画の中で生きる存在です。自分が願う結果にならなかったとしても、神様の御心を待ち、慕い求めつつ生きていきましょう。

御言葉を聞くことに努めよう 2020.9.19

Ⅰサムエル24:1-22

サウルがダビデを殺すために兵たちを引き連れ追っている姿を見ながら、サウル王って極めて暇だなと思いました。選り抜きの3千人は最強の兵たちでしょう。誰と戦っても負けない精鋭のエリート集団です。サウルはそのような優秀な人材を率いています。国のことには関心がなく、ひたすらダビデを捕えるのに意識が向いています。このような彼の姿をダビデは何と言っていますか。14節「イスラエルの王は誰を追って出て来られたのですか。死んだ犬の後でしょうか。一匹の蚤の後でしょうか。」

ダビデは自分を死んだ犬や蚤のように価値のないものに蔑んで例えながら、王としてこのような価値のない者を追っていると皮肉っているのでしょう。自分の感情に捕らわれると、価値のないことに力を費やすことになります。

サウルはダビデと言う名前を聞くだけで興奮して殺そうと追いかけて行きます。耐えられません。しかし、結局自分の損になります。私たちはサウルのような人になってはいけません。

サウルとダビデの決定的な差は聞く耳にあると思います。サウルは人の言葉に心が揺らぎます。ある人が、ダビデはここにいますと言うとすぐ兵たちを連れて行きます。それで、ダビデはこのように話します。9節「なぜ、ダビデがあなたに害を加えようとしているという人の言葉に耳を傾けれられるのですか。」彼に比べてダビデは人の言葉に揺らぎません。部下たちがサウルを殺せる絶好のチャンスだと言ったときにも、彼は油注がれた方に手を下すことは出来ないと言います。自分の感情に捕らわれるのではなく神様の御言葉に従います。

信仰の生活で勝利する秘訣は、人の言葉ではない神様の御言葉に耳を傾けることです。そうすることで、勝利ができます。信仰も聞くことから始まり、人生の勝利も聞くことか始まると信じます。周りの人たちがある人について話す時、皆さんはどんな反応を見せますか。無条件に同意しますか。あるいは、聞いて祈ってもう一度考えますか。その人がいかに悪いことをしたとしても、無条件にその言葉に同意して興奮してはいけません。祈ってあげるべきです。

どうやって祈れるのですかと疑問に思われるかも知れません。ダビデを見ると不可能なことではありません。ダビデは自分を殺そうとするサウルを生かしました。また、愛しました。祈ります。更に、サウルの家を守ることさえも約束します。ダビデが愛するから、サウルの憎しみに満ちた心も力を失って自分を顧みながら泣きます。感情に従えば復讐をしたかもしれませんが、ダビデはそうしませんでした。計算しませんでした。裁きは主のものです。私たちは続けて御言葉に従い、愛し、行動するのが勝利する道でしょう。

憎しみの心を抱いてはいけません。祈ってあげると十分です。その魂のために祈るのです。時が来ると誤解も解け、関係も回復し、状況も変わるでしょう。それが、自分が生きる道です。憎しみは、その心を持つ人自身を殺す結果に至ることを覚えましょう。

 

苦難の中のダビデを慰めてくださる神様 2020.9.18

Ⅰサムエル23:15-29

サウルを避けてダビデとその群れは、あちこちさまよいました。一つの所に長く留まることは出来ませんでした。ケイラからジフの荒野に逃げました。しかし、サウルは兵たちを引き連れ追ってきました。また、再びエン・ゲディの要塞に行って住みます。サウルは追いかけ続け、ダビデは逃げ続ける繰り返しでした。苦難の連続です。

ダビデが逃げる所々にサウルがその後を追って来る場面を読みながら、Ⅰペテロ5:8の御言葉が思い浮かびました。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえ猛る獅子のように、だれかを食い尽くそうと捜しまわっています。」まるで、エサを探し回っている獅子のように、しきりにダビデを追って来るサウルです。今、私たちの生活の中でも苦難が繰り返して起こることもあり得るでしょう。その時に、どうすべきでしょうか。気落ちして座り込んでいるべきでしょうか。神様に向かって不平を言うべきでしょうか。恐れの中でおののいているべきでしょうか。

聖書は、身を慎んで目を覚ましていなさいと言っています。それから、堅く信仰に立って、悪魔に対抗しなさい(Ⅰペテロ5:9)と話します。ペテロは、私たちの兄弟たちも世の中で同じ苦難を通っていると。つまり、あなた一人だけが通る苦難ではないと言うことでしょう。自分一人だけがこんな大変な人生を過ごしていると考えてはならないと言う意味です。ペテロは私たちが世の中でしばらく苦しみにあった後、神様は回復させ、堅く立たせ、強くし、不動のものとしてくださると証言しています。

ダビデは、今、荒野でさまよいながら、訓練を受けているのです。苦難を通してダビデは訓練を受け、一層強くなり、堅く立つ過程を通っていると思います。自分一人で敵対しながら戦うのではなく、主が共にしてくださるのです。

そして、主は苦難の中でのダビデにヨナタンを送られました。ヨナタンはダビデに、「恐れることはありません。父サウルの手が、あなたの身に及ぶことはないからです。」恐れるなと言う言葉は旧約の中で、神様の慰めと励ましの時によく使われる言葉です。「あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。父サウルも、そうなることを確かに知っているのです。」このように、苦難の中を通っている私たちを主は忘れることなく励ましてくださる方です。皆さんは決して一人ではありません。

ヨナタンの立場では、ダビデは父の敵です。しかし、ヨナタンは神様側からダビデを見ました。それで、ダビデに神様の慰めと励ましの言葉を伝えることが出来たでしょう。

今、主の慰めと励ましを必要とする肢体(人)は周りにいませんか。自らの観点ではなく神様の観点から見た時に、神様の慰めと励ましが必要な人はいませんか。神様はその人にどんな御言葉で慰めてくださると思いますか。主が自分を通して働かれることを願いましょう。