誰が石を転がしてくれるでしょうか。 2020.06.29

マルコ書16章1-8

イエス様の体に香料を塗るため、墓に向かっている三人の女性たちは、墓の入口を塞いでいる大きな石をどうすべきか悩んでいました。この悩みは現実的なことだと思います。なぜなら、イエス様が死なれ、自分たちには力がなかったからです。この大きな石は、私たちが実際に持っている現実の悩みであり、解決すべき問題でしょう。しかし、問題は、イエス様が死なれたと思っているので、そこからこの石を転がすのが問題になっているのです。もし、イエス様が墓の中におられないことが分かっていたなら、それは、問題にならなかったでしょう。言い換えれば、復活なさったイエス様に対する確信がないため、大きな石が問題になったわけです。この三人の女性の心配の元は何でしょうか。復活なさると言う御言葉が信じられなかったことです。イエス様が十字架で死なれる前に復活について何度も語られましたが、その御言葉を信じなかったと言うことです。

私たちの信仰の問題は何でしょうか。御言葉を信じないことであり、御言葉を覚えていないことです。それで、イエス様の復活も信じられませんでした。人は目で見た通りに信じるため、不信仰が生じます。目で見て信じるのではなく、宣布された御言葉を信じる信仰が私たちの信仰にならなければなりません。

誰が、転がしてくれるでしょうか。

彼らがお墓に着いた時は、すでにその心配は無用になっていました。復活なさったイエス様の前では、いくら大きな石であったとしても何の問題にもなりません。すでに、主が転がしておられたからです。復活の信仰を持っている者たちには、現実の悩み、心配は何の役にも立ちません。

また、石が転がされてあったと言うことは、イエス様が体をもって復活なさったことの証拠となります。霊だけでよみがえられたなら、石で塞がれてあってもなくても関係なかったのですが、体をもって復活なさったので、石を転がして歩いて出て行かれたことを表します。霊でも体でも復活なさったことを信じる時、わたしたちの人生の行き先を塞いでいた石はすでに転がされていて、私たちは約束通りにイエス様に会えるようになると信じます(7節)。

無理やりに十字架を背負わせられたクレネ人シモン 2020.06.27

マルコ書15章16-32

イエス様がゴルゴタに向かって十字架を背負って行かれる時、クレネ人シモンと言う人がちょうどその時、通りかかっていました。クレネとは、現在北アフリカのリビアにある都市でした。ディアスポラのユダヤ人だった彼は、過ぎ越し祭りのためにエルサレムに来たのは確かだと思います。しかし、急にローマ兵士たちによってイエス様の十字架を背負うようになりました。本当に戸惑ってしまったはずです。自分が願ってもいないひどいことにあわされたシモンの心境はどうだったでしょう。

彼の心はとても悩まされたと思います。ある面では、思わず襲って来た試練だとも思ったでしょう。十字架は、かなり重かったに違いありませんが、何よりも、罪人の十字架を背負っていくのが気に入らなかったと思います。自分がなぜ、こんなことにまきこまれてしまったのかを考えたでしょう。もう少し早く過ぎ去っていたなら、もう少し遅く来たなら、なんとかして目立たなかったなら、こんな目に会わされなかったのにと自分を責めたのではないでしょうか。

しかし、結局、このことは、恵みにつながったと信じます。聖書は彼の名前と子供たちの名前を記録しています。アレクサンドロとルフォスの父であるクレネ人シモンと確かに書いてあります。ルフォスと言う名前は、使徒パウロがローマ書16章で同僚たちに安否を尋ねる時に登場します。「主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく(ローマ16:13)。」彼の母を自分の母と言っています。つまり、ルフォスと使徒パウロは仲の良い友人だったのが分かります。ローマにいるキリスト者たちの間でも名が知られていた人だと言う意味でしょう。

私たちは、従順と言うのは自ら進んでするものであり、その時こそ恵みがあるものだと思います。もちろん、正しいことだと思います。しかし、クレネ人シモンのことを考えて見ると、時には願わないことだとしても、従順になる時、恵みがあると思います。どんなことが与えられても喜びを持って荷いましょう。願ったことでも、願ってなかったことでも自分に与えられたことについて最善を尽くしましょう。その時に一層、大きな恵みが注がれるのではないでしょうか。イエス様も願わなかった十字架を背負われました。それが、父の御心だったからです。それにも関わらず、イエス様は黙々と十字架を背負われました。従順に行いました。その従順によってすべての名にまさる名が与えられました。

神の道、自分の道 2020.06.26

マルコ書15章1-15

二人が比較されています。

すべての人を救うために、ご自分に向けられた数えきれない偽りの証言と告発に対して、何の一言も言わないイエス様(5節)。それに比べて、群衆に満足を与えるため、また、自分の立場を守るため、罪がないイエス様を十字架につけたピラトがいます(15節)。

誰のために生きていて、どんな価値を求めて生きているのかの問題でしょう。これによって生き方が変わっていきます。神の国のために生きておられるイエス様は、ご自分に向かう非難をすべてを負われました。それに対し、何の答えもなさりませんでした。ご自分が行くべき道をご存知であり、黙々とその道を進められました。神様の御心を成し遂げる道で、御心に相応しい道でした。

しかし、ピラトは違います。暴動が起こるとローマでの自分の評価が悪くなり、総督の地位を失うかも知れない恐れがありました。それで、彼が選んだ道は、群衆を満足させることでした。彼らがどんな要求をしてきても聞いてあげることにしました。神様とは何の係わりもない道でした。自分のための道でした。彼の選択は、神の子を十字架に付けるように売り渡したことになりました。自分の地位は守られたかもしれません。ユダヤ人たちから、利口な総督だと褒められたかもしれません。しかし、彼は神様と何のかかわりもない、自分の道に行ったことになります。

ガラテヤ書1:10「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。」

イエス様も使徒パウロも、人々に取り入ろうとも、喜ばせようともしませんでした。一番大事なのは、神の御心、神の御意志でそのためなら自分の出来るすべてを捧げました。それが、自分の命であったとしても。

今日を生きている私たち、何のために生きているのでしょうか?相変らず他の人々の評判や言葉に気を使うのが私たちの事実でしょう。人々に取り入ろうと、人々を喜ばせようとする心が、相変わらず自分の心に残っているのが分かります。また、問題にならないように、楽に楽に行こうとする心も残っています。しかし、本当に大事なことは、神の心に取り入ることであり、神を喜ばせる道に従うことでしょう。

自分の中にピラトのような心を降ろして、イエス様が行かれた道に進んで行けるように。本当に自分に向かう神様の御心を知り、それに黙々と従えるように。賢い人、褒められる人になるより、主の後ろに従う自分になることを願います。頭で主に従うのではなく、祈りをもって主に従う今日になりますように願います。

信仰とは決断だけで成り立つものではありません。 2020.06.25

マルコ書14章66-72

イエス様が人々にからかわれる姿を見ていたペテロの心はどうだったでしょう。イエス様が捕まえられる前までは、たとえ死ぬとしても決してイエス様を裏切らないと誓ったペテロでした。しかし、イエス様が捕まえられた時、逃げてしまい、また、殴られるのを見ながらも、代わりに殴られるどころか、遠く離れたところで見ているだけでした。

召使いの女が「あなたもナザレ人イエスと一緒にいましたね。」と言われた時に否定して、また、否定しました。最後には呪いまでかけました。「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言ったイエス様の御言葉通りになりました。

ペテロは確かにイエス様を愛していました。72節に、イエス様の言葉を思いだして泣き崩れたと書いてあるのを見ると分かります。しかし、危機の前では、それを貫く力が足りなくて、それほど愛してたイエス様を知らないと否定してしまいます。

このように、心を決めて、イエス様を離れずに死ぬまで従いますと決めましたが、出来ませんでした。信仰とは、決断だけで成り立つものではありません。

もし、自分はペテロのような状況に追い込まれたら、どうしたのか?今は、当然、イエス様の弟子だと言うけれど、実際に追い込まれた時にもそう答えるべきでしょう。私たちが生きているこの世は、そんなに甘い所ではありません。ペテロが置かれた場面のような状況がいくらでもあり得ります。ですから、一日一日主の恵みが必要です。主の助けが必要です。それで、わたしたちは祈るべきであり、一層、主を愛するべきです

夢見る者 vs 裏切る者 2020.06.22

マタイ書14章32-42

イエス様が捕まえられる直前、弟子たちに語られた言葉にとても胸が痛みます。

「裏切る者が近くに来ています。」という言葉を読むやいなや、創世記のヨセフが思い浮かびました。夢見る者がやって来る。彼は夢を見る者でした。神様からいただいた夢をいつも話していました。それ故、兄弟たちから憎まれましたが、にもかかわらず、ヨセフは夢を持っている者でした。誰の夢でしょうか?神様からいただいた夢でありビジョンでした。その夢によって彼の人生の中で、ある期間苦痛の時間を通らなければなりませんでしたが、彼の夢通りに成し遂げてくださる神様を経験し、神様の栄光を現すことが出来ました。

「裏切る者がやって来る」いかに悲惨な言葉でしょうか?3年の間、イエス様と同行しながら多くのことを見て学んだはずですが、最後には裏切ってしまいます。彼もイエス様を通して自分なりの夢を見たはずでしょう。しかし、その夢は神様からのものではなく自分の夢でした。自分の夢が成しとげられなさそうになったら、彼はイエス様を裏切ってしまったのです。

同じ夢を見ましたが、ひとりは「夢を見る者がやってくる」と言われ、もう一人は「裏切る者がやって来る」と言われました。

1.あなたは現在、夢をみていますか?夢を見ているなら誰の夢を見ていますか。つまり、何のためにイエス様を信じて従っていますか?主がくださった心と同じ心を抱いていますか?でなければ、自分の欲に従って信仰生活をし、教会共同生活をしていますか?

2.もし、自分の思いにあわないと主を裏切り、離れる夢を見ていますか?それではなく、主の御心であれば苦痛や苦難があってもその道を歩んでいますか?

イエス様は、ご自分が捕まえられることを知り、祈るために山に登られました。最後まで、神様に従順であるために、恐れおののく心をもう一度確実にするために祈られました。イエス様も、神様の夢(計画)を見ながら、その道を歩まれました。できることなら、この時が自分から過ぎ去るように(35節)と祈られました。「しかし、私の望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。(36節)」

これこそ、夢見る者の姿ではないかと思います。自分の心ではなく、神様の心に従うことです。私たちは、自分の心、自分の思いに従って、物事を決める場合が多いです。それこそ、私たちが持っている裏切る者の一面ではないかと思います。

私たちは夢を見る者なのか、裏切る者なのか、自分自身に問うべきです。