満足を知らない人 2020.08.21

Ⅰサムエル10:17-27

今日の箇所では、イスラエルの初代の王であるサウルが「くじ」という公の方法によって、イスラエルの王として選出される場面です。サムエルはミツパに集まっている民たちに向かって、19節「あなたがたは今日、すべての災いと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、私たちの上に王を立ててくださいと言った。」と話しながら、彼らの罪についてもう一度思い起こさせています。ここの「退ける」という言葉は、軽蔑する、拒むという単語に由来しますが、この言葉から「カス」と言う単語も生じました。つまり、イスラエルは神様を捨てられたゴミやあくたのように扱ったという意味です。

イスラエルの民たちは、神様が施してくださった恵みを忘れ、自分たちの満足のために、神様を面倒な存在とし、ぞんざいに捨てたのです。苦難がある時は神様を求めますが、これからは王の方が格好いいから、異邦の国々に倣って自分たちの王を求めました。多くの苦難と災いから救ってくださった神様を自分たちの満足のために捨てたのをこのように表現したわけです。

このようなイスラエルの民たちの姿が、自分の中にもあるのではないか顧みるべきでしょう。頂いた恵みは忘れ、現実の前でためらいながら自分の救い主を忘れてはいませんか。

それにもかかわらず、神様はサムエルを通してイスラエルに王を立ててくださいました。それも、すべての民たちが見ている中で、公に選ばれました。そのように立てられた初の王がサウルでした。神様の真実の愛が感じられます。神様は、いつも私たちに向かって真実であられる方です。しかし、このような神様の恵みと憐れみによって王が立てられましたが、気に入らない人たちもそこにはいるわけです。

このような人たちは二つの種類でしょう。一つは、だれが王になっても構わないが、サウルだけは赦せないという心を持っている人たちです。彼らの心には、サウルに妬みがあったではないでしょうか。もう一つは、自分が王になりたいと思う人たちです。サウルのような人が王になるのなら、自分の方がましだ。なぜ、自分ではないのか。この心でしょう。認められたい人たちです。

どんな種類の人であるとしても、このような人たちは、神様の恵みに満足できない人たちです。なので、神様の恵みがあるのにもかかわらず、満足できないのです。いつもあれこれ言い訳を言う人たちだと言えるでしょう。今、自分は人を見ながら妬んでいる心はないでしょうか。神様の恵みに感謝をささげているでしょうか。自分の心に問いかけましょう。

 

愛の心と従順の心  2020.08.19

Ⅰサムエル9:15-27

今日の御言葉の箇所で、「わたしの民」と言う言葉が何回出て来るのか見つけてみましょう。16-17の2節の中で神様は、「わたしの民」という言葉を四回も使っておられます。わたしの民とは誰でしょうか。イスラエルのことでしょう。しかし、イスラエルは神様を捨てました。8章7節「わたしが王として彼らを治めることを拒んだ」と神さまが語られたように、イスラエルは神様の民になるのを拒んだのです。神様の統治より、人間の王の統治を願いました。

しかし、神様にとってイスラエルは、相変わらず愛おしいわが民でした。神様は私たちを捨てられない方です。それで、イスラエルの叫ぶ声をお聞きになり、彼らを顧みられました。王を願ったので、王になるサウルを呼ばれたのです。

サムエルも神様の御言葉を聞き、従順でいました。神様を捨てた彼らに腹が立ちましたが、神様の御心を知ったサムエルは御言葉に従いました。サムエルは、イスラエルの預言者さえ知らないサウルに向けて先に手を差しのべました。また、サウルの食べる分を用意しておきました。共に食事をし、屋上で遅い時間まで話を交わしました。サムエルが預言者であることさえ知らないサウルにどんな話をしたのでしょうか。預言者だったので神様の心について話したと思います。

気に入らないと言って神様の御心に逆らうのではなく、神様の喜ばれるところに従順となるのが信仰です。自分の気に入らない人だと言って拒み、相手にせずに無視するのではなく、最後まで愛される神様の御心のように愛が必要です。なぜなら、私たちは神様の民であり、子どもだからです。神様の御心に従って生きるべきです。御言葉に従う時こそ、神様は私たちを用いられると思います。

私たちは主の御心を知っていますか。教会に向かわれる主の心、この地に向かわれる主の心を知っていますか。祈る者がその御心を悟るようになると思います。その御心を悟ったなら、従順になりながらその御心に従って歩んで行けるでしよう。

新しい門が開かれる 2020.08.18

1サムエル9:1-14

今日の御言葉を読んでいると、面白い所が見つかります。父は雌ロバを数頭失くします。息子は探しに行きましたが見つけられませんでした。それで、あきらめて家に帰ろうとしました。サウルのしもべは預言者のところに行くように勧めましたが、サウルは捧げ物を持っていませんでした。始めから、すべて否定的な単語が並べられています。何か、計画通りにいかない感じです。

しかし、サウルのしもべは1/4のシェケルの銀を持っていました。預言者に会いに行く道で水を汲みに出て来た娘たちに出会います。彼女たちは、ちょうど預言者がいけにえを捧げにその日に来られた。すぐ上って行けば会えると言うのです。それで、サウルが登っていき、町に入りかかった時、ちょうど出て来るサムエルに会うのです。これで今日の御言葉の箇所が終わります。今回は、すべて肯定的な単語が並べられています。

結局、すべてがサウルとサムエルが出会うことに話が進行して行きます。雌ロバがいなくなり、探せなかったことがきっかけになって、サムエルのところにまでたどり着くのです。まるで、だれかの計画の通りに展開していくようです。世の人たちはこれを偶然と言います。しかし、私たちは、神様の計画、摂理と言います。つまり、私たちの人生のすべてが神様の御手の中にあることを告白します。なので、目の前に良くないことが起こったことで落胆する必要はありません。そのことを通して、別の新しい門を開いておられる神様を信頼し祈りましょう。

失敗は終わりではありません。自分が願う通りにならなかったとしても、それを通して他のチャンスを許される神様を信じるからです。それで、わたしたちは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」と言う御言葉を良く知っているのです。どのように感謝が出来るでしょうか。失敗を通して、塞がれた門を通して、新しい門、新しいチャンスに導かれることを信じるからこそ感謝が出来るのです。そのために、私たちは祈らなければなりません。

今日の一日も、自分の計画通りにならなかったとしても、神様に信頼を置き、感謝しつつ喜んでいましょう。

宮の再建と神の国の完成 2020.7.21

ゼカリヤ書14章:1-11

主がゼカリヤに見せられた幻とメッセージは、宮の再建だけではなく、メシヤが来られること、更に、神の国の完成を私たちに望ませます。それが、最後の14章で表されています。

14章の御言葉は歴史の中で起こった出来事ではなく、イエスキリストが来られる将来のことを見せています。これは、霊的イスラエルである教会のイメージだと言えます。終末の教会は、異邦の国々に攻められるようになります。これは、13章7-9に書いてあるように神様の裁きから残った3分の1の中で、また、その半分が連れ去られる惨状を呈しています。

しかし、この患難は長続きしないでしょう。主が共におられるからです。神様が異邦の国々を裁かれます。

主が来られる時、救われた主の民は主と共におり、暗闇の中で光を放つようになります。すべての世は光なる主を見るでしょう。エルサレムからいのちの水が流れ出るイメージは、いのちの豊かさを見せていて、そのすべての働きを通して神様が栄光を受け取るようになるでしょう。地のすべては平らになり、エルサレムは高くそびえ、すべての地の中心になるでしょう。もはやエルサレムが聖絶されることはなく、エルサレム(霊的な教会)は安らかに住むようになります。このすべてが神殿の再建を通して、預言者たちを通して、神様が私たちに見せてくださるビジョンです。このすべては、生活の慌ただしさや所有の豊かさによるものではなく、神の御言葉とその成就であるイエスキリストの来られることによって与えられる祝福です。

イエス様が弟子たちに向かって、ご自分の十字架の働きを通して与えられる救いと教会について話されました。その教会にご自分を与えられるのが一番大きな祝福であることを約束なさりました。したがって、キリストのみが私たちの希望になるでしょう。キリストのみが教会の岩となり、すべてです。キリストのみが真実の宮となり、その宮なるキリストが来られる時こそ、すべての安らぎと喜びが与えられるからです。

教会は、建物や駐車場などの人の目に望ましい姿に希望を置くのではありません。ただ、キリストご自身とその方の御働きに自分をあずけることにより、私たちは真の安らぎと喜びを得られます。神殿は神様の臨在を意味するので、民たちにとって宮の再建は大切でした。キリストの来られることは、このすべての究極的な祝福を私たちに与えるでしょう。それで、わたしたちはその御言葉を福音、良い知らせとして受け取るのです。

 

悔い改める者に与えられる勝利 2020.07.18

ゼカリヤ書12:1-14

神様の働きをする時に常に覚えておくべきことは、神様がどんな方なのかということを忘れないことです。1-9節の中をみると、預言者は神様がどんな方であるかについて宣言しています。どんな神様だと言っていますか。天を張り、地の基を定め、人の霊をそのうちに造られた方が告げられた言葉だ。一言で言えば、創造主です。なぜ、神様を紹介しているでしょう。ユダの民は多くの敵によって苦しめられていて、敗北意識に囚われていました。しかし、神様は、預言者を通して、数えきれない敵に囲まれて脅かされても、全能なる神様が彼らを守ってくださることに気づき、恐れを乗り越えるように語っておられます。

また、神様がユダの民を守られることを話します。敵が神様の民に襲って来ても失敗する。かえって、神様の御手により燃やされ、目が見えなくなって滅ぼされると。神様は御自分の民を守られ、民たちは敵を打ち破るようになる。面白い表現は、エルサレムが重い石となり、それを持ち帰ろうとする者たちがひどい傷を受けると言われます。神様は、ご自分の民を瞳のように守られるでしょう。

私たちはどうでしょうか。自分を守ってくださる神様についてどれくらい知っていて信じていますか。外部から攻撃してくる人たちがいると、退いてしまいます。しかし、よろめいて傷つくのは敵たちです。神様の民は何の害も受けません。5節の御言葉のように「エルサレムの住民は、彼らの神、万軍の主によって私の力となる」その通りです。なので、堂々としましょう。私たちを助けられる主がおられることを信じましょう。弱い者でもダビデのようになります。ゴリアテに勝利したダビデのようにです。

しかし、このような勝利の結果は誰にでも与えられるものではありません。神様は、イスラエルの民の心に恵みと嘆願の霊を注がれるでしょう。恵みと赦しを求める心は神様のプレゼントです。10節、「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て…激しく泣く」この御言葉は、イエスキリストの死を預言した言葉です。十字架の死を見て激しく泣く、悔い改める心。自分の罪を悔い改めて激しくなく心を持っている人に神様は勝利を与えられます。

言いかえれば、自分の罪を顧みる人が、自分を攻撃してくる人を赦すことが出来る心を与えて下さいと祈ることができ、赦す人が勝利を経験する人になるのです。その人を見ると神様が共におられることが分かります。