一回も傷ついたことがないように愛しなさい。2020.07.16

ゼカリヤ書10:1-12

神様はイスラエルの民について語られます。「彼らは、私に捨てられなかった者のようになる。私が彼らの神、主であり、彼らに応えるからだ。」

神様はイスラエルを愛されて回復されることが、いかに驚くべきことなのかについてこのように語られます。捨てられなかった者のようになると。過去を忘れるくらい大きな愛を施され、満たして下さる神様です。過去のことがこれ以上思い浮かぶことなく、過去のことによって苦しめられることなく、彼らの心は主にあって大いに楽しむ。

過去の罪の問題で苦しめられたとしても、傷があっても、神様の愛はそのすべてを覆うことが出来るのです。思い出されることもないようにしてくださる神様の愛です。傷が癒されるのはただ神様の愛と恵みのみです。なので、私たちもお互に一回も傷ついたことの無いように愛しましょう。それは、主の愛を経験した人のみできるのです。もちろん、易しいことではありません。だからこそ、十字架の愛がいかに大きい愛なのかが分かります。

イスラエルを苦しめた周りの国々は逆に苦しめられますが、イスラエルは強くなり豊かになるでしょう。自分を苦しめてきたものをすべて捨て、神様の恵みにあずかり、満たされましょう。

なぜなら、神様は私たちの創造主だからです。春の雨をくださる神様です。雨雲を造り、にわか雨を降らせる方です。神様だけが私たちの統治者です。神様に寄り頼る時にその恵みが注がれます。この世の中でどんなものも私たちを救えません。いくら命を掛けて信じるとしても、信じる対象が神様でなければ、私たちの信仰は無駄なことになります。ただ、イエスキリストを通してのみ永遠の命を得ることが出来るのです。

自分の存在の理由!2020.07.11

ゼカリヤ書8章1-13

私たちの存在の理由は何なのかが、明確に出てきます。

エルサレムが真理の聖なる都と呼ばれる理由は何でしょうか。神様がエルサレムに住まわれるからです。

万軍の主の山が聖なる山と呼ばれる理由は何でしょうか。神様がエルサレムに住まわれるからです。

エルサレムに老いた男や女が大勢、子供たちが大勢、遊ぶようになる理由は何でしょうか。神様がエルサレムに住まわれるからです。

ユダの人たちが力を出し、勇気を出す理由は何でしょうか。神様が共におられるからです。

蒔かれた種が育ちブドウの木の実が結ばれ、地が産物を出して、平安の中で収穫が出来る理由は何でしょうか。神様が共におられるからです。

イスラエルの民が祝福される理由な何でしょうか。神様が共におられるからです。

私たちの生きるすべての理由が何なのか明確に出て来ます。ユダが滅ぼされたのも、神様の栄光が離れたからです。神殿が壊され、敵に踏みにじられ捕虜になった理由も、神様の栄光が離れたからです。つまり、私たちにとって神様が離れるということは、死を意味します。生きていても生きる意味がなくなります。死んだのと違いがないからです。天から露が降りるのも、実が成るのも自然現象ではありません。神様の助けです。恵みです。人間関係が回復されるのも神様の恵みです。恵みがあれば、以前と違う関係になります。

従って、私たちは力を出すべきです。勇気を出していきなさいということです。何故でしょうか?神様が共にいてくださる、神様が私たちの神様になって下さると約束して下さるからです。神様が、先に私たちを愛して下さり、また、回復も約束なさりました。それは、神様のもとに戻りなさいという御心です。神様の元に戻ると私たちの一日一日が祝福になります。

 

 

「私の霊によって」2020.07.07

ゼカリヤ書4:1-14

この個所は、ゼカリヤ書の8つの幻の中で、五つ目です。

純金の燭台がありました。その燭台のそばには、二本のオリーブの木がありました。この二本のオリーブの木の管から油が注ぎだされ、燭台の火を灯していました。ゼカリヤは、このオリーブの二本の枝は何ですかと尋ねます。すると、これらは全地の主のそばに立つ二人の油注がれた者だと答えられます。その二人は、だれでしょうか。ゼルバベルと大祭司ヨシュアのことだとみなされます。

聖書では、油とは聖霊を意味する場合が多いです。燭台は聖所の中であるもので、いつも灯されていました。聖所の燭台に火が灯されるということは、70年前、国が滅ぼされると同時に神殿も崩され、礼拝が消え、主の臨在もありませんでした。その崩された神殿がもう一度回復されることを意味します。神殿が回復され、聖所の燭台の火が灯されるということは、神様の臨在と統治が再び始まると言うことでしょう。その証拠として、14節「全地の主」と表現しています。神様は全地を治める主です。神様によって選ばれたイスラエル、つまり、選ばれた主の民によって、この地に主の栄光が輝くのを見せてくださったのです。

私たちこそ、主の選ばれたイスラエルです。私たちを通して主の栄光が現されるべきです。その光を灯すためには油が必要です。オリーブの木から金の油が続けて注がれるように、私たちにも油が必要です。聖霊の助けが必要です。毎瞬間聖霊の助けを求めて祈りましょう。聖霊の助けなしには、私たちは生きられません。聖霊の助けによって、私たちは聖所の灯になり、この世を照らし、主の栄光を現す人生の歩みになることが出来るのです。

また、ゼカリヤは、御使いに続けて質問します。これは何ですかと。ある程度は知っているでしょうに、正確に知るために聞いているのです。謙遜な姿が見られます。求める者に知恵を与えられ、教えて下さいます。聖書に対して私たちは、聖霊の助けを求めるべきです。知っていると思う時にも、また、聞き、黙想し続ける時に、もっと深い奥義が悟られるでしょう。この助けの御言葉が6節7節です。かなり有名な御言葉です。大いなる山は神殿再建を妨げるものを意味しますが、この妨げるものがすべて平らにされると約束されます。

「恵みあれ、恵みあれと叫び声があがる」ように、私たちのすべての生活の隅々に主の恵みがあれと宣言しましょう。今日の一日も助けてくださる主の恵みを求めましょう。

 

 

恵みと慰めの御言葉 2020.07.02

ゼカリヤ書1章7-21

ゼカリヤ書には、八つの幻が出て来ます。その中で、今日の個所からは二つが登場します。二つの幻は、イスラエルとエルサレムを愛する神様の御心が現されています。一つ目の幻は、ミルトスの木の間に立っている人を見ました。ミルトスの木は、イスラエルの回復を意味します。イザヤ書では、荒野にミルトスの木とオリーブの木を植えることで、神様の新しい御業が行われることを表しています。つまり、神様がもう一度エルサレムを回復させられると言う御心でしょう。しかし、前提条件として民たちが悔い改めて主に立ち返ってくることです。

御使いは、神様がエルサレムとユダの町々に憤られて七十年になったと話しています。つまり、今や、約束の時期になりましたが、どうなさいますかという質問でしょう。それで、神様は16節で「わたしは、憐れみをもってエルサレムに帰る。そこに私の宮が建て直される。測り縄がエルサレムの上に張られる。」ハレルヤ。希望のメッセージが宣布されました。「わたしは、エルサレムとシオンを妬むほど激しく愛した。」と話されましたが、これこそ、神様の御心です。

面白い表現は、神様は怒られましたが、それはイスラエルを打った国々の故でした。神様は、ご自分の民に少し怒られましたが、国々は彼らが欲するままに悪事を行ったとおっしゃいます。これが、親の心ではないでしょうか。親が怒り罰するのは良いが、間違ったと言って、他の人々が子供をしつけると気に要らなくなります。怒るのも愛だからです。愛がなければ無関心になるでしょう。

また、二つ目の幻は、四つの角を打ち滅ぼすために四人の職人が出て来たと話しています。角とは、力、権力を意味します。ユダを散らした他の国々のことを表します。この角を滅ぼすのが神様の御心です。

私たちを愛される神様の御心を知り、希望を持ち、慰められますように。絶望の中でも希望を宣布し、御言葉で慰めてくださる神様の御心を悟り、自分の力ではない主の愛によって回復されるその日まで待ち望みましょう。

主に帰りましょう。 2020.07.01

ゼカリヤ書1章1-6

ゼカリヤー主が覚えておられると言う意味を持っています。ハガイ書と同時代に記録されたとみなされます。記録の目的は、神殿の再建とイスラエルの回復に対する希望です。

5節で、ゼカリヤは「あなたがたの先祖たちは、今どこにいるのか。」と聞いておられる神様の御言葉を伝えています。神様の御言葉に従わなかった者たちの結果を見なさいと言うことでしょう。不従順は、死を意味します。国が滅ぼされ、民たちが捕虜として連れて行かれました。それで、神様は、先祖たちを見習ってはならないと語っておられます(4節)。神様は、先から語られました。「悪い道と悪しきわざから立ち返れ。」しかし、彼らは聞こうとも耳を傾けようともしませんでした。

良いことであれ、悪いことであれ、見本があります。それを見て私たちは、学ばなければなりません。主は、今、先祖たちの姿を見て「わたしに帰れ。」と語っておられます。悪いことを見て、悪い道に従うのではなく、立ちかえって主の御言葉に従うべきでしょう。受動的ではなく、能動的な従順が必要です。

神様の御言葉で、意味のない御言葉は一つもありません。御言葉を成就されるお方です。計画されたことを成し遂げられる方です。今もその御言葉は、とこしえにあります。先祖たちも死に、御言葉を宣布した預言者たちも死にましたが、神様の御言葉は、今も生きていて働かれると語っています。「私たちにしようと考えたことをそのとおりになさった(6節)。」今も、私たちにしようと考えておられることをその通りになさる方の御言葉に従順になりましょう。主にかえりましょう。

失われた心、離れた心、もう一度主に向かって立ちかえりましょう。